戦 国 大 名・武 将

山内一豊 (やまのうち かずとよ) 天文十五年(1546)〜慶長十年(1605)

通称猪右衛門、初代土佐藩主。
信長・秀吉・家康に仕え、さほど武功があったわけではないが、妻との二人三脚でついに
徳川政権下で土佐一国の太守の地位にまで昇った。

山本勘助 (やまもと かんすけ) 明応二年(1493)〜永禄四年(1561)

本名は晴幸、号は道鬼。
活躍を示す確たる資料はないが「甲陽軍鑑」では武田家の軍師・参謀的存在とされ
また築城術にも優れ小諸城などの縄張り(設計)を行ったという。永禄四年の第四次川中島合戦で
『きつつきの戦法』を考案するも謙信に見破られ、責任を感じて敵軍中に突入し戦死したと伝えられる。

山中幸盛 (やまなか ゆきもり) 天文十四年(1545)〜天正六年(1578) 

通称鹿介。
尼子家の勇将で主家復興に尽し奔走したが、上月城にて毛利軍の包囲に遭い、
援軍の秀吉が兵を退いたため孤立し無念の降伏。この上は毛利家の当主・輝元と差し違えんと心中深く期したが、
吉川元春に見破られ安芸国へ護送中に備中阿井(合)の渡で謀殺された。

山名豊国 (やまな とよくに)  天文十七年(1548)〜寛永三年(1626)

一族間の争いや家老武田高信の離反などで揺らいでいた山陰の名族山名氏も。
豊国がこれを収束して第十七代因幡守護の鳥取城主に。しかし、秀吉の山陰侵攻の前に降伏したため、
家臣らに城を追い出された。後に秀吉の御伽衆となり、関ヶ原では東軍に参加。

戦後徳川政権下で但馬村岡山名氏の祖となった。

山崎片家 (やまざき かたいえ) 天文十六年(1547)〜天正十九年(1591)

父は丹後守宗家。元六角義治家臣で志摩守を称した近江山崎城主。
主君義治に女婿を謀殺されたため離反、以後織田信長に属す。
後には秀吉政権下で摂津三田城主に任命された。

山県昌景 (やまがた まさかげ) 享禄三年(1530)〜天正三年(1575)

武田家重臣。
信玄の重臣・飯富虎昌の弟で、初め飯富源四郎と称したが信玄の命で甲斐の名族・山県氏の名跡を継ぐ。
「山県の赤備え」と呼ばれ恐れられた無敵の騎馬軍団を率いた。
長篠の戦いでは再三の諫言も勝頼には聞き入れられず、全滅を覚悟の上で敵方の鉄砲隊に突撃を繰り返し、
壮絶な戦死を遂げた。

山口宗永 (やまぐち むねなが) 天文十四年(1545)〜慶長五年(1600)

豊臣秀吉の家臣。光広の子で名は正弘・宗長とも言い、玄蕃頭を称す。
秀吉の養子秀俊(小早川秀秋)の後見人に命ぜられ、秀秋の越前移封とともにこれに従い、加賀大聖寺六万石を領した。
関ヶ原の際には西軍に属し、籠城して前田利長勢の攻撃を支えたが、あまりにも兵力差があり力尽きて自刃した。

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