戦 国 大 名・武 将

永井直清

(ながい なおきよ)天正十九年(1591)五月〜寛文十一年一月九日(1671)二月十八日

寛永九年(1632年)十一月十八日、日向守に叙任。
数度の加増を経て寛永十年(1633)三月二十五日、二万石を与えられて山城長岡藩主となる。
慶安二年(1649)七月四日には一万六千石を加増されて合計三万六千石の大名となる。
このとき、領地も長岡から摂津高槻藩に加増移封された。
兄・尚政と同様に有能かつ京都周辺の領地を支配したため、京都所司代代理・大坂城代代理を歴任し、
禁裏造営の奉行や大坂城普請を務めるなど、幕府からの信任は厚かった。藩政においても、
城下町の整備や拡大、治水工事を務めて実高六千石を増加させるなど、藩政の基礎を固めた。

内藤宗勝  (ないとう そうしょう)    ? 〜永禄八年(1565)

松永長頼。戦国の梟雄松永久秀の弟。
三好長慶のもとで軍功を挙げ天文二十二年(1553)年に丹波八木城主となり、のちに氷上郡を除く丹波一国を支配。
丹波守護代家内藤国貞の娘を娶って同氏を嗣ぎ、蓬雲軒宗勝と号した。飛騨守如安は実子とも養嗣子ともいうが不明。
永禄八年

(1565)年八月に丹波黒井城の赤井直正と和久郷にて戦うが、大敗を喫して戦死。

内藤家長 (ないとう いえなが)  天文十五年(1546)〜慶長五年(1600)

徳川家の松平時代からの譜代家臣。
幼少時より家康に仕え三河一向一揆平定に活躍、以後多数の合戦に参加したが、
関ヶ原の合戦時に鳥居元忠とともに伏見城で戦死した。

長尾晴景 (ながお はるかげ)    ? 〜天文二十二年(1553)

越後守護代長尾為景の嫡子、上杉謙信の兄

はじめ定景を称し、将軍義晴の偏諱を受けて晴景と改名。
通称は弥六郎。天文五年に家督を嗣ぐが、病弱でまた武将の統率力に欠けていたため家中がまとまらず、
弟景虎とも仲がこじれたため、守護上杉定実が間に入り家督を景虎に譲って隠居した

成瀬正成 (なるせ まさなり)   永禄十年(1567)〜 寛永二年(1625)

徳川家譜代の重臣。
家康の小姓上がりで信頼も厚く、小牧・長久手の合戦や関ヶ原の際に活躍。
また家康の政治面の中枢として参画、和泉堺奉行も務めた。
後に尾張家義直の付家老を命ぜられ、犬山三万石の城主に。

長束正家 (なつか まさいえ)    ? 〜慶長五年(1600)

通称は新三郎、大蔵少輔を称す。
元は丹羽長秀の軽輩であったが、才を秀吉に認められて抜擢され、後に豊臣家五奉行の一人として活躍。
近江国出身で計数に明るく、豊臣政権の経理部門を担当。関ヶ原では居城水口城に逃げ戻るが
既に甲賀衆に占領されて入城できず、近江郡日野まで落ち延びたが進退窮まり自刃した。

中川清秀 (なかがわ きよひで) 天文十一年(1542)〜天正十一年(1583)

重清の子で幼名虎之助、通称瀬兵衛。
初め池田勝正のち織田信長麾下の荒木村重に属した摂津の土豪で茨木城主。
元亀三年には信長に背いた和田惟政を討ち取り、後の山崎合戦でも活躍した。
賤ヶ岳の合戦では大岩山に布陣するが佐久間盛政の奇襲を受け、奮戦したが戦死。

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