寺沢広高 (てらざわ ひろたか)  永禄六年(1563)〜寛永十年(1633)

広政の子で志摩守を称す。名は正成・広忠とも。
豊臣秀吉の側近で主に物資の輸送や船舶航行の統制などに従事、長崎奉行も務めた。
関ヶ原の際には東軍に属し、最終的には肥前唐津城主となった。
今なお残る名勝『虹ノ松原』を造ったことでも知られる。







寺沢広政 (てらざわ ひろまさ)  大永五年(1525)〜慶長元年(1596)

はじめ織田信長、のち豊臣秀吉の家臣。
通称藤右衛門、越前守を称す。名は広正・弘政とも書く。秀吉の近江長浜城主時代からの直参衆で、
天正十年には播磨伊保荘を知行、山崎合戦の際には姫路城の留守居役を務め、毛利氏に備えた。

戦 国 大 名・武 将

寺崎盛永 (てらさき もりなが)   ? 〜天正九年(1581)

通称民部左衛門尉、越中願海寺城を本拠とした国人。
天文二十一年婦負郡井田城主飯田利忠を天神林で撃破。能登畠山氏内紛の際には能登二宮に攻め入った。
はじめ上杉謙信、のち織田方につき、天正九年再び上杉方に走ったため佐々成政に攻められ自害。
ただしその場所には諸説あり、能登とも近江佐和山とも伝えられるが詳細は不明。

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