戦 国 大 名・武 将

松永久秀 (まつなが ひさひで) 永正七年(1510)〜天正五年(1577) 

大和信貴山・多聞山城主。従四位下弾正少弼、永禄十二年四月以降は山城守とも称す。
山城西岡の商人の出自などとも言われ、前歴不明ながら戦国期屈指の謀略家で主の三好長慶から実権を奪い、
時の将軍義輝を二条御所に攻め殺害した。永禄十年(1567)、筒井順慶・三好三人衆らとの南都における戦いで、
兵火により結果的に東大寺大仏殿を炎上させる。のち信長に属すが再三背き、天正五年十月に信貴山城で
自刃
『一説に名器平蜘蛛茶釜とともに爆死』。奇しくもその日は大仏殿を焼いた日と同じ十月十日であった。

松永久通 (まつなが ひさみち)  天文十二年(1543?)〜天正五年(1577)

幼名彦六、はじめ義久を名乗る。久秀の嫡子で、一説に河内飯盛山城で誕生したという。
はじめ右衛門大夫を称し永禄六年に従五位下右衛門佐に叙任、家督を譲られて多聞山城主となり、
その官名から金吾と呼ばれた。父久秀とともに行動する事が多く、将軍義輝殺害に加担。天正五年八月、
突如信長に背いた父に従い出陣中の摂津天王寺の砦から引き上げ、十月一日に楊本城で裏切りに遭い殺された。
一説に父久秀とともに信貴山城に滅んだとも伝えられる。法名『高岳院久通居士』。

前田利家 (まえだ としいえ)  天文七年(1538)〜慶長四年(1599)

元は織田信長家臣で通称又左衛門。
若い頃は武芸に長じ『槍の又左』の異名をとり、母衣(ほろ)衆を務めた。
秀吉の藤吉郎時代からの親友で、賤ヶ岳の戦いの際には戦線を離脱し柴田勝家の敗因を作った。
豊臣家五大老の一人として秀吉を助け、家康の野望を牽制した加賀前田百万石の祖。

前田利長 (まえだ としなが)  永禄五年(1562)〜慶長十九年(1614)

家の長男で通称は孫四郎、肥前守を称す。
加賀前田百万石二代目の当主。父利家と共に信長・秀吉に仕え戦功を挙げる。
利家の没後関ヶ原の際、家康に母の芳春院を苦慮の末人質として出し、家の安泰を最優先させた。
これにより加賀前田藩は幕末まで見事に生き残った。

前田利常 (まえだ としつね)  文禄二年(1593)〜万治元年(1658)

利家の四男で母は側室・寿福院。
妻は徳川秀忠の娘・珠姫。筑前守のち従三位権中納言。世に小松中納言と呼ばれた加賀前田氏第三代当主。
大坂冬の陣の際には真田丸の攻防で失態を冒すが、翌年の夏の陣では奮戦して名誉を挽回。
領民からの信頼も厚く、幕府から睨まれないよう鼻毛を伸ばして虚気(うつけ)を演じるなどのエピソードを持つ。

前田利政 (まえだ としまさ)  天正六年(1578〜寛永十年(1633)

利家の二男で通称は孫四郎、能登守・羽柴能登侍従を称す。
名は利正とも。関ヶ原の際には兄利長と決別、徳川家康からの参陣要請の使者土方雄久を追い返した。
戦後失領し夫人と共に京都嵯峨へ赴き、剃髪して宗悦と号し隠棲、大坂の役の際にも傍観の姿勢をとり出陣しなかった。

松平清康 (まつだいら きよやす) 1511〜1535

安祥(安城)松平氏・信忠の長男で通称次郎三郎、三河安祥のち岡崎城主。
徳川家康の祖父。若き身ながら国人衆を次々と服属させ、一時三河を制圧した。
尾張へ侵攻中の天文四(1535)年十二月五日、織田信光の拠る守山城攻めの際に
家臣安部弥七郎に誤って殺された(守山崩れ)。

松平康長 (まつだいら やすなが) 永禄五年(1562)〜寛永九年(1632)

三河二連木城主戸田弾正忠重の子で徳川家康の家臣。戸田康長ともいう。
わずか6歳で家督を嗣ぎ、家康の養女松姫(久松利勝の娘)を娶り松平姓を許される。
高天神城攻略時に初陣を迎え、関ヶ原では大垣城を攻略した。最終的には信濃松本七万石の城主に。

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