戦 国 大 名・武 将

福島正則  (ふくしま まさのり)  永禄四年(1561)〜寛永元年(1624) 

正信の子。豊臣秀吉麾下筆頭の猛将で、左衛門大夫を称す。
『賤ヶ岳七本槍』
の一人で、関ヶ原の際には東軍に属し竹鼻城・岐阜城の戦いに活躍、
本戦でも先鋒左翼を務め宇喜多勢と激闘を演じた。戦後これらの功により安芸広島四十九万石の大封を拝領。
直情家かつ酒好きで失敗も多かったようだが、純な性格は家臣からも慕われ、その軍勢は統制が取れ非常に強かったという。
後に幕府より広島城無断修築の罪を問われて信州高井野村に配流、その地で没した。
 

福島高晴 (ふくしま たかはる)  天正元年(1573)〜 寛永十年(1633)

正信の二男で正則の弟。名は正頼ともいい、兄正則と共に豊臣秀吉に仕える。
伊勢長島一万石を領し、尾張知多郡十万石の代官を兼任。関ヶ原の際には東軍に属し正則に従って
東下中に下野小山で三成らの挙兵を知り、急ぎ長島へ戻り山岡景友と八百足らずの兵で籠城して城を守った。
戦後大和宇陀郡松山城三万石に加増転封されるが、大坂役の際に敵方内通の疑いにより
改易され伊勢山田に蟄居、同地で没した。

不破光治  (ふわ みつはる)   大永二十六年(1526?)〜天正十年(1582)

河内守。ある資料では西美濃四人衆の一人という。
はじめ美濃守護土岐氏の家臣でのち斎藤氏を経て織田信長に仕える。
浅井長政とお市の婚儀をはじめ、主に外交面で活躍した。越前一向一揆平定後に同国龍門寺城主となり、
前田利家・佐々成政とともに柴田勝家の目付を務めた。

古田重然 (ふるた しげなり)  天文十三年(1544)〜元和元年(1615)

重定の子で中川清秀と従兄弟にあたる。左介、織部正と伝わるが、正しくは織部助。
茶人として名高い。織田信長の臣で初め荒木村重の与力となるが、村重謀反時には有岡城攻めに加わった。
本能寺の変後は秀吉に仕え、晩年はお咄衆を務めた。関ヶ原の戦いでは東軍に参じて加増されたが、
大坂の陣の際に豊臣方内通を疑われて家康から切腹させられた。享年七十二歳。徳川秀忠の茶の師匠と伝えられる。

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