戦 国 大 名・武 将

田中吉政 (たなか よしまさ)  天文十七年(1548)〜慶長十四年(1609)

元は農民の出自で、数年で大名にまで出世した「ミニ秀吉」的な異色の武将。
関ヶ原の際にはかつての僚友石田三成を自ら捕らえ、その功により三河岡崎十万石から筑後柳川三十二万石の
城主に抜擢された。柳川では土木・農政の開発に尽力するが、慶長十四年二月に京都で客死した。

伊達政宗 (だて まさむね)   永禄十年(1567)〜寛永十三年(1636) 

輝宗の子。
仙台藩祖で幼時に右目を失明、独眼竜の異名を持つ奥州の名将。父輝宗の奇禍により家督を相続して以来、
奥州の国人衆を次々と攻略、広大な勢力を築いたが秀吉の小田原攻めへの遅参を咎められ、所領を削られた。
長女の五郎八(いろは)姫を家康の子・忠輝に嫁がせ徳川家との結びつきを強め、
また南蛮貿易を企図し家臣の支倉常長をスペインに派遣したことでも知られる。

竹中重治 (たけなか しげはる) 天文十三年(1544)〜天正七年(1579)

元斎藤龍興の家臣で通称半兵衛。
のち信長に仕え秀吉に属す。その容貌や的確な状況判断から羽柴家の諸葛孔明と言われ、
羽柴秀吉時代の数ある戦功の大半はこの重治の活躍に負うところが大きい。
しかし生来病弱だったため、秀吉に従って中国平定出陣中に姫路の陣中で病没した。

武田信玄 (たけだ しんげん)  大永元年(1521)〜天正元年(1573)

甲斐守護武田信虎の嫡男。
はじめ晴信、のち入道して信玄を称す。軍政・外交・謀略すべてに優れた名将で、無敵の騎馬軍団で知られる
戦国時代の巨星。惜しむらくは北隣に上杉謙信という偉大なライバルがいたため、思うように版図は拡大できなかった。
上洛途中に持病の労咳が悪化、遠江三方ヶ原に家康を撃破したが帰国途中に信州駒場の陣中で病没。

武田信虎 (たけだ のぶとら)  明応三年(1494)〜天正二年(1574)

武田信縄の子で甲斐守護。対立していた叔父信恵を滅ぼし、甲斐を統一。
暴君の評判が高く、信玄を廃そうと考えたことから逆に国を追われ駿河へ追放され、今川氏の庇護を受ける。
後に京で隠居中に孫の勝頼から帰国を認められたがすでに発言権はなく、信濃高遠城で病没した。

滝川一益 (たきがわ かずます) 大永二年(1525)〜天正十四年(1586)

左近将監。信長の重臣で鉄砲に長じ、後に関東管領に。
甲賀忍者上がりとの説もある。本能寺の際に北条軍と戦って敗れ、このため清洲会議では発言権を失う。
後に秀吉に降伏、隠居先の越前大野にて病没。

高山右近 (たかやま うこん)  天文二十一年(1552)〜元和元年(1615)

友照の子で本名は重友。
はじめは織田信長の重臣・荒木村重に属した高槻城主のキリシタンで、受洗名はジュスト。
後に改宗を拒否して国外追放され、追放先のマニラで程なく病死。

武田勝頼 (たけだ かつより)  天文十五年(1546)〜天正十年(1582)

武田信玄の四男で信濃高遠城主のち甲斐新府城主。
母は信玄に謀殺された諏訪頼重の娘。幼名四郎、元服後諏訪氏を称すが信玄死去により家督を相続。
猛将として知られたが、相次ぐ身内の離反や長篠の敗戦で武田家そのものが弱体化、織田・徳川両軍に
攻め込まれ最後に頼った重臣の小山田信茂にも欺かれ、天目山の麓・田野にて妻子と共に自害した。

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