戦 国 大 名・武 将

服部半蔵 (はっとり はんぞう)  天文十一年(1542)〜慶長元年(1596)

徳川十六将の一人。本名は石見守正成で、通称『大半蔵』。
本能寺の変の際、家康の『伊賀越え』を一族を挙げて護衛、無事国元に帰還させた。
配下に多数の忍び衆を抱えて諜報活動で活躍するが、半蔵自身の実像は忍者というより槍術に優れた
家康麾下の有能な戦闘指揮官であった。現在の東京『半蔵門』は、ここに彼の屋敷があったことからその名がある。

畠山義続 (はたけやま よしつぐ)  ? 〜天正十八年(1590)

能登守護畠山義総の二男で通称左衛門佐。
父の死後家督を嗣いで能登守護となり七尾城に拠ったが、重臣間の争いが激化し、
天文二十年(1551)に家督を子の義綱に譲って出家、徳祐と称す。上杉謙信の救援を仰ぐが
永禄九年(1566)に義綱とともに能登を追放され、再入国を果たせず歿した。

波多野秀治 (はたの ひではる) 享禄二年(1529)〜天正七年(1579)

丹波の土豪で八上城主。
明智光秀の天正七年の丹波攻めの際、よくこれを防いだが光秀の謀略にかけられ、
彼の人質(一説には光秀の実母とも)を信じ開城を決意。しかし、光秀と本梅城で会盟中に謀られて
弟秀尚とともに捕らえられ、安土へ送られて磔刑に処された。一説に護送途中に捕らえられた際に
受けた傷がもとで落命したともいう。

蜂須賀正勝 (はちすか まさかつ) 大永六年(1526)〜天正十四年(1586)

尾張土着の乱波上がりと伝えられる謀将で、通称は小六のち彦右衛門、修理大夫を称す。
秀吉の片腕で、藤吉郎時代からの参謀役として知られ、四国征伐までの大小数知れぬ合戦で活躍した。
特に竹中半兵衛・黒田官兵衛らが秀吉に随身するまでは、多方面にわたって秀吉を助けた播磨龍野城主。

蜂須賀家政 (はちすか いえまさ)  永禄元年(1558)〜寛永十五年(1638)

正勝の嫡子で通称彦右衛門、阿波守を称す。
はじめ織田信長、後豊臣秀吉に仕えた阿波徳島城主で、長篠から朝鮮の役までの各地の合戦で活躍。
関ヶ原の際は形の上は西軍に属したが病気と称して動かず、子の至鎮が東軍に属したことから旧領を安堵され、
これを機に家督を譲り剃髪して蓬庵と号した。

馬場信房 (ばば のぶふさ)   永正十一年(1514)〜天正三年(1575)

武田家の譜代家老衆で「四臣」の一人。美濃守。信春ともいう。教来石(きょうらいし)氏の出自で、天文十五年に馬場伊豆守の名跡を継いで馬場民部信房と称した。軍政ともに優れた智将で信玄の片腕となって活躍。しかし長篠合戦では勝頼を諫めるが聞き入れられず、殿軍を務めて勝頼を無事に退却させた後に戦死した。

花房職秀 (はなふさ もとひで)  天文十八年(1549)〜元和二年(1616)

宇喜多家家臣で通称助兵衛(すけのひょうえ)。

宇喜多家筆頭の猛将だったが、小田原攻めの際秀吉を痛烈に批判し却って褒められるなど、
毒舌家として有名。

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