戦 国 大 名・武 将

清水宗治 (しみず むねはる)  天文六年(1537)〜天正十年(1582)

備中高松城主石川久孝の臣宗則の子で通称長左衛門尉。
備中清水城主のち高松城主。毛利家小早川隆景の傘下に属した勇将。
天正十年、秀吉の水攻めに遭い城は孤立、救援には来たもののどうすることも出来ず、
状況を見かねた毛利家からの降伏勧告にも応じず義を貫く。
城兵の命と引替えに兄の月清らとともに浮かべた舟の上で敵味方注視の中、切腹した。

島津義弘 (しまづ よしひろ)  天文四年(1535)〜元和五年(1619)

義久の弟で島津家第十八代当主。
初名は忠平のち義珍(よしたか)を経て義弘と改名。通称又四郎、兵庫頭を称す。
戦国史上に名高い猛将で、文禄・慶長の役の際にはその無類の強さから『鬼石曼子』

と呼ばれ怖れられた。
関ヶ原の際にはわずか千五百の軍勢を率いて参陣、世に『島津の前退』と呼ばれる
その敵中突破の凄まじさは今もなお語り継がれる。

島 清興 (しま きよおき)   天文九年(1540?)〜慶長五年(1600)

大和平群谷の出自か。通称左近、名は勝猛・清胤・友之・昌仲などとも記録に見える。
筒井順慶の下で松蔵右近とともに「筒井の右近左近」と並び称された名将で、筒井家の伊賀移封後に定次のもとを離れ、
石田三成から高禄で招聘されたとされる。石田家の筆頭家老を務め軍事全般を司り、関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いでは
小戦ながら東軍方中村一栄を破る。しかし翌日の決戦で黒田長政隊の銃撃を受けて負傷、以後の消息は不明。
戦死したとも西国・京都・東北などへ脱出したとも伝えられる。

柴田勝家 (しばた かついえ)  大永二年(1522)〜天正十一年(1583)

通称修理亮、妻は織田信長の妹・お市。
一度信長の弟信行に加担して謀反に加担したが失敗、降伏し許されてからは信長の忠実な家臣となる。
『瓶(かめ)割り柴田』の異名を持つ織田家筆頭家老の猛将で、北陸方面司令官を務めた。
信長没後に清洲会議で秀吉と衝突、賤ヶ岳の戦いに敗れ居城の越前北ノ庄城で妻・お市の方とともに自刃した。

島津久保 (しまづ ひさやす)  天正元年(1573)〜文禄二年(1593)

義弘の二男で通称は又一郎。天正十五年、日向諸県郡を与えられる。
同十七年父義弘とともに上洛して伏見で豊臣秀吉に拝謁、翌年の小田原攻め・奥州攻めに従軍した。
朝鮮の役にも父とともに出陣するが、陣中で病を得て唐島で病没した。

島 信勝 (しま のぶかつ)  永禄元年(1558?)〜慶長五年(1600)

通称新吉、左近清興の嫡子。
関ヶ原合戦において討死したとされる掃部介
『和州国民郷士記』と同一人物か。
天正十三(1585)年の秀吉の紀州征伐に際し、筒井定次に従って出陣し活躍した記録がある。
『和州諸将軍傳』では諱は政勝とされ、獺瀬
(おそせ)一揆鎮圧の際に活躍したとされる。
なお、筒井家移封の際に定次に従って伊賀へ行ったのは信勝で、左近は大和豊田村
(吐田氏闕所)にいたとする説もある。
関ヶ原合戦の際には前日の杭瀬川の戦いに父左近とともに出陣、本戦では藤堂玄蕃良政を組み伏せて討ち取るが、
直後に玄蕃の郎党山本半三郎
(異説あり)に討たれたという。関ヶ原合戦関連の軍記物では同合戦を信勝十七歳の
初陣とするものもあり、生年は不詳だが総合的に見て『和州諸将軍傳』に見える生年をとりあえず記した。

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