江戸重通 (えど しげみち)   弘治元年(1555)〜慶長三年(1598)

常陸の土豪で水戸城主通政の子で通称は彦五郎、但馬守を称す。
代々佐竹氏と抗争に及んでは和睦を繰り返してきたが、重通の時に豊臣秀吉政権下で常陸公認領主となった
佐竹義宣からの水戸城明け渡しを拒否。このため義重・義宣父子に攻め落とされて下総の結城晴朝のもとに奔り、
そのまま同地で歿した。

戦 国 の 大 名・武 将

遠藤直経 (えんどう なおつね)   ? 〜元亀元年1570 

近江浅井氏の家臣で大依山砦の守将。通称は喜右衛門。

浅井家の猛将として知られ、永禄十一年には主君長政と織田信長が初対面の際、接待役を務める。
近江姉川の合戦で奮戦するが自軍が大敗、策を弄して信長に近づき襲いかかろうとしたが、
側に控えていた竹中久作に見破られて討たれた。

遠藤基信 (えんどう もとのぶ)  天文元年(1532)〜天正十三年(1585)

伊達輝宗の重臣。
米沢の修験者の子と言われ、宿老中野宗時に寄食。以後次第に才覚を発揮、輝宗の近侍となる。
中野宗時出奔時にはその家臣達を説得して帰参させた。
輝宗歿時に殉死しようとしたが果たせず、忌日に墓前で自決した。

遠藤宗信 (えんどう むねのぶ)  元亀三年(1572)〜文禄二年(1593)

基信の子。伊達政宗の宿老。
十七歳で家督を嗣ぎ、政宗に重用される。佐竹・蘆名・岩城氏らとの戦いに活躍、
また文禄の役にも大功を挙げる。故あって一時出奔するが、程なく鈴木氏ら重臣に諭されて帰参したという。

遠藤胤俊 (えんどう たねしげ) 天文十五年(1546)〜元亀元年(1570)

美濃郡上郡の土豪で木越(きごえ)城主。 
はじめ斎藤氏に属すが後に織田信長に臣従。
近江堅田の合戦で坂井政尚の指揮下で浅井・朝倉連合軍と戦うが奮戦むなしく討死。

江村親家 (えむら ちかいえ)   生没年不詳

土佐長宗我部氏の家臣。
吉田備後守重俊の二男で、江村備後守親政の養子となって娘を娶り備後守を継称した。
このため以後重俊を大備後、親家を小備後と呼ぶ。
国親・元親二代に仕え、天文十八年の山田基通との戦いをはじめ数々の合戦で活躍した。
日時は不詳だが天正年間に病歿。

江村親俊 (えむら ちかとし)   生没年不詳
土佐長宗我部氏の家臣。
小備後親家の子で、通称は孫左衛門。元親に仕え、天正十年の阿波侵攻の際には一宮城を守った。
同十三年元親が秀吉に降伏した際には、比江山親興とともに人質となった津野親忠に従い伏見の秀吉のもとへ赴いた。
朝鮮の役では晋州城攻撃に参加し武勲をたてた。慶長初めに病歿と伝える。

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