戦 国 大 名・武 将

長宗我部元親 (ちょうそかべ もとちか) 天文八年(1539)〜慶長四年(1599)

国親の子。初名弥三郎、宮内少輔、土佐守。
軍政両面に優れた土佐の名将で、分国法「長宗我部元親百箇条」を制定したことで知られる。
天正十三年春に念願の四国統一を成し遂げるが、直後に四国へ侵攻してきた秀吉の大軍の前には衆寡敵せず、
同年八月に降伏。後は忠実な秀吉傘下の大名となり羽柴姓を許され、また従四位下に叙せられ土佐侍従と呼ばれた。
秀吉の九州征伐の際に戸次川合戦で長男信親を亡くしてからは精彩を欠くが、小田原攻めや文禄役にも参陣した。
慶長四年五月十九日、京都伏見にて没。享年六十一歳。

長宗我部信親 (ちょうそかべ のぶちか) 永禄八年(1565)〜天正十四年(1586)

元親の嫡子で幼名千雄丸のち弥三郎を称す。名の「信」は織田信長からの拝領。
秀吉の九州征伐の際、父元親や十河存保らとともに島津軍と豊後戸次川において戦う。
しかし軍監の仙石秀久や旧怨を含む十河存保と意見が合わず無謀な戦いを強いられ、敵方も称賛したほどの
奮戦も虚しく二十二歳の若さで戦死。その手には信長から贈られた名刀・左文字が握られていたという。

長宗我部盛親 (ちょうそかべ もりちか) 天正三年(1575)〜元和元年(1615)

元親の四男。兄信親の死により家督を相続。父と共に「長宗我部元親百箇条」を制定した。
関ヶ原では西軍に属したため戦後に浪人、大岩幽夢と名を変え京の寺子屋の師匠にまで身を落とす。
大坂の陣の際は主将格の一人となり冬の陣で活躍したが、夏の陣で敗れ斬首された。

長 綱連 (ちょう つなつら)  天文九年(1540)〜天正五年(1577)

通称大九郎または左兵衛のち九郎左衛門、続連の子ではじめ重連を名乗る。
能登守護畠山義隆の重臣で義隆殺害時には遺児春王丸の後事を託された。
織田信長に通じ七尾城に籠もって上杉謙信に対抗するが、謙信方についた遊佐続光により殺害された。

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