戦 国 大 名・武 将

織田信長 (おだ のぶなが)  天文三年(1534)〜天正十年(1582) 

信秀の子。軍政両面に数々の新機軸を採用した戦国の革命児。
永禄三年、今川義元四万の大軍を桶狭間にてわずか二千の軍勢で撃破するという強運に始まり、
美濃斎藤氏を滅ぼして岐阜へ本拠を移す。
有能な家臣にも恵まれ、朝倉・浅井・六角氏らを立て続けに滅ぼし勢力を拡大。
天正元年には室町幕府十五代将軍足利義昭を京都から追った。
十年に及ぶ本願寺との戦いを制し武田氏をも滅ぼすが、
天正十年六月、一瞬の隙をつかれて明智光秀の謀反に遭い、燃え上がる本能寺にて自刃した。

織田信秀 (おだ のぶひで)  永正七年(1510)〜天文二十一年(1551)

信定の子。信長の父で尾張古渡・末森城主。通称三郎、弾正忠のち備後守。

尾張守護斯波氏の被官より台頭して那古屋城を奪い、天文九年には三河安祥城を攻略、十一年には小豆坂で
今川氏を破るなど一時は西三河にも勢力を伸ばした。「尾張の虎」と恐れられた猛将だったが尾張統一半ばで病死。

大内義隆 (おおうち よしたか)  永正四年(1507〜天文二十年(1551)

義興の子で大内氏第三十一代当主。
周防山口に居を構え、西国六カ国を領し京風文化にも精通した文化人守護大名として知られる。
しかしその政治があまりに文化面に偏っていたため、天文二十年(1551)八月二十九日、
文官相良武任と対立していた武闘派家臣陶晴賢(当時は隆房)の反乱に遭い長門へ逃れるが、
深川大寧寺に追いつめられ九月一日に自害。

大谷吉継 (おおたに よしつぐ)  永禄二年(1559)〜慶長五年(1600) 

近江伊香郡の出自で大谷吉房の子と伝えられ(異説あり)、通称は紀之介、刑部少輔を称す。
秀吉の近侍から次第に頭角を現し、越前敦賀五万石の城主となる。娘が真田幸村の妻で、名は吉隆とも。
地味ながらも親友石田三成との義に生き義に殉じた悲運の名将。関ヶ原の際に隣に陣した脇坂安治ら
四将の裏切りに遭い、奮戦ののち自刃。巷説では持病のハンセン氏病が悪化して盲目であったと伝える。

大野治長 (おおの はるなが)   ? 〜元和元年(1615)

通称修理亮(しゅりのすけ)。
大坂の陣の際は豊臣方の事実上の総帥だったが、統率力に欠け浪人武将の信頼を得ることが
出来ず落城後に自害した。古田織部門下の茶人としても知られる。


織田長益 (おだ ながます)  天文十六年(1547)〜元和七年(1621)

通称源五、信長の実弟で後の有楽斎。
信長没後は秀吉に仕え、千利休門下の茶人となり秀吉の茶の湯を務めた。
秀吉没後は家康に仕え、大坂の陣の際は城中にあって情報を徳川方に送っていたという。
現在の東京・有楽町は彼の江戸屋敷跡の名残りである。
と言われているが、長益は江戸に住んだという事実は無い。

現在の大阪市内の 天下茶屋辺りを昔は有楽と言った。
こちらの方が真実かも知れない。

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