戦 国 大 名・武 将

平岩親吉 (ひらいわ ちかよし)  天文十一年(1542)〜慶長十一年(1611)

徳川家譜代の重臣。
家康の人質時代からの家臣で頑固者として知られ、一時信康問題で身を慎むが程なく許され復帰。
後に徳川義直の付家老を命ぜられ尾張犬山九万石余の城主に。


平塚為広 (ひらつか ためひろ)   ? 〜慶長五年(1600)

豊臣秀吉の家臣。
通称は孫九郎、因幡守を称し、美濃垂井一万二千石を領す。
関ヶ原の際には大谷吉隆(吉継)に属し、前田利長の南下を阻止。
決戦では病に冒された吉隆に代わって指揮をとり奮戦したが、
乱戦の中で山内一豊の家臣樫井庄兵衛に討たれたという。

平手汎秀  (ひらて ひろひで)  天文二十二年(1553)〜元亀三年(1572)

織田信長家臣。
平手政秀の孫で、通称監物。武田信玄西上時に浜松城の徳川家康の下に援軍として派遣され、
三方ヶ原において徳川勢の先鋒の一翼として武田軍と激突、討死した。

平野長泰 (ひらの ながやす)  永禄二年(1559)〜寛永五年(1628)

豊臣秀吉の家臣。船橋右京進重治の子で平野万久入道の養子となる。
初名は長勝、通称権平、のち遠江守を称す。尾張津島十五党の出自で秀吉の小姓として仕え、
「賤ヶ岳七本槍」の一人として知られる。戦功を重ねて大和十市郡田原本城主となり、
慶長三年には豊臣姓を賜る。後に徳川秀忠に仕えた。

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