戦 国 の 大 名・武 将

黒田孝高 (くろだ よしたか)  天文十六年(1546)〜慶長十九年(1604) 

職隆の子で通称官兵衛、後に如水軒円清と号した。
受洗名ドン・シメオンを持つキリシタン大名。播磨国姫路の生まれで初め小寺姓を名乗る。
竹中半兵衛亡き後秀吉を補佐した名参謀で、その知謀は秀吉すら恐れたという。
信長の重臣荒木村重の謀反時に使者として摂津有岡城に派遣されたが城内の牢獄に幽閉され、
後に救出されたもののこれが元で終生足が不自由となった。
後に豊前中津十二万石の主となり、関ヶ原の際には在国していたが兵を駆り集めて石垣原で大友義統を撃破した。

黒田長政 (くろだ ながまさ)  永禄十一年(1568)〜元和九年(1623)

官兵衛孝高の嫡男で従五位下甲斐守のち従四位下筑後守。
松寿丸と呼ばれた幼少期は、信長への人質として長浜で暮らす。
このとき荒木村重の謀反が起こり、説得に出向いた父孝高が有岡城に幽閉され、
これを疑った信長から処刑の命が下るが、竹中半兵衛の機知により救われたと伝えられる。
天正十七年に父孝高の跡を嗣いで豊前中津城主となり、朝鮮役の際には渡海して数々の武功を挙げた。
また関ヶ原では東軍に属し活躍、その功により一躍筑前一国五十二万石の主となった。

朽木元綱 (くつき もとつな)  天文十八年(1549)〜寛永九年(1632)

名族佐々木氏の流れを汲む近江国朽木谷の土豪で、通称は弥五郎、信濃守のち河内守を称す。
織田信長の朝倉攻めにおける「金ヶ崎の退陣」の際には、当時浅井氏の勢力下にあったが信長を朽木越えにて案内し、
無事に京へ帰還させた。関ヶ原でははじめ西軍に属すが途中で東軍に寝返り、戦後所領を安堵された。

九鬼嘉隆 (くき よしたか)   天文十一年(1542)〜慶長五年(1600) 

定隆の二男で通称は右馬允、大隅守を称す。信長水軍の総帥で、元は熊野の海賊とされる。
大鉄甲船を操り毛利水軍を第二次木津川海戦で撃破したことは有名。
のちに秀吉に仕え、関ヶ原の際に西軍に属したため責を取って謹慎、東軍に属した子の守隆の嘆願で助命が決定したが、
その報が届く直前に守隆の家臣に欺かれた形で自刃した。

九鬼守隆 (くき もりたか)   天正元年(1573)〜寛永九年(1632)

嘉隆の嫡子で幼名は孫次郎、従五位下長門守。友隆・光隆ののち守隆を名乗る。
慶長二(1597)年に家督を嗣ぎ志摩鳥羽城主となるが、関ヶ原の際には東軍に属し、
西軍に加担した父嘉隆と東西に分かれて戦う。
戦後加増され鳥羽五万六千石を領し盲船や車輪船など独自の発想による軍船などを造るが、
もはや九鬼水軍の活躍の場はなく、失意のうちに江戸屋敷で没した。

国司元相 (くにし もとすけ)  明応二年(1493)〜天正十九年(1591)

安芸毛利氏譜代家臣有相の嫡子。
毛利元就の重臣で信任が厚く、隆元の傅役に任命された。
天文九年の吉田郡山合戦では敵の首級三十四を挙げ、武田信実を撃退するなど奮闘、
永禄四年の石見松山城攻めでは一番槍の功名を挙げた。また政治面でも五奉行の一人に抜擢され活躍した。

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