戦 国 大 名・武 将

上杉謙信 (うえすぎ けんしん)  享禄三年(1530)〜天正六年(1578) 

越後春日山城主。
長尾為景の次男で幼名虎千代、元服後に長尾弾正少弼景虎を名乗り、国内の統制力に欠けていた兄晴景隠居させ越後守護代となる。
上杉憲政から頼られて関東管領職を譲られた際に上杉政虎、のち上洛して将軍義輝の偏諱を受け輝虎と名乗る。
五度の川中島合戦をはじめ、長きにわたった武田信玄との戦いは有名。天正六年三月、日頃の大酒が災いしたか春日山城で急死した。

上杉景虎 (うえすぎ かげとら) 天文二十一年(1552)〜天正七年(1579)

相模小田原城主北条氏康の七男で前名は氏秀。
はじめ武田信玄の人質となるが、甲相駿三国同盟が破れて帰国後に今度は越相同盟締結により越後に送られ、
上杉謙信の養子となり景虎を称す。謙信没後に家中を二分するお家騒動が勃発(御館の乱)、景勝と争い敗れて自刃した。
なお、生年は1554年とも言われる。

上杉景勝 (うえすぎ かげかつ) 弘治元年(1555)〜元和九年(1623)

中納言。
長尾政景の子で謙信の養子となり、相続争いで北条家から来た養子の景虎を下し(御館の乱)家を継ぐ。
小田原合戦の後、会津百二十万石の主に。豊臣家五大老の一人で寡黙な名君として知られるが、
関ヶ原では西軍に加担し、戦後は出羽米沢三十万石に減封された。

宇喜多直家 (うきた なおいえ) 享禄二年(1529)〜天正九年(1581)

和泉守
旧主の浦上宗景を謀略にかけて讃岐へ追い出し、備前・美作二国と播磨の一部を入手して独立大名となった。
対立する相手を次々と仕物(暗殺)にかけ、実弟忠家をして直家の死後に『いつも兄にはおびえていた』
と言わしめたほどの戦国屈指の謀略家。

宇多頼忠 (うだ よりただ)     ? 〜慶長五年(1600)

豊臣秀長・秀吉の家臣で、石田三成の妻の父。
官称は下野守。はじめ豊臣秀長に属し大和で一万三千石を給されるが、秀長歿後は秀吉に仕え、
関ヶ原の際には近江佐和山城に移って守備を固める。西軍敗退の後、
叛将小早川秀秋に佐和山城を攻め落とされ、子の頼重とともに自刃した。

宇喜多秀家 (うきた ひでいえ)  天正元年(1572)〜明暦元年(1655)

直家の子で通称八郎、初名は家氏。
岡山城主で備前中納言と呼ばれ、豊臣家五大老の一人。朝鮮の役の際には碧蹄館の戦いで活躍。しかし関ヶ原で敗れて
薩摩の島津家にかくまわれる。島津義弘らの嘆願により死一等を減じられ八丈島へ遠流となり、
当地で病死するまで五十年を島で生き抜いた。

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