戦 国 大 名・武 将

明智光秀 (あけち みつひで)  享禄元年(1528)〜天正十年(1582)

織田信長の家臣で通称十兵衛、日向守を称す。
美濃土岐氏の出身とされる信長幕下随一の智将で、惟任(これとう)姓を賜る。
天正十年、謀反を起こし本能寺に信長、二条城に信忠を攻め滅ぼすが、報を聞き急遽中国から引き返した
羽柴秀吉に京・山崎の合戦で大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中に小栗栖で土民の槍にかかり落命。

浅井長政 (あざい ながまさ)  天文十四年(1545)〜天正元年(1573)

久政の長子で備前守を称した北近江・小谷城主。最初は賢政を名乗るが、後に長政に改名。
信長の妹・お市の方を妻に貰い受け織田家との友好を深めるが、信長の約束違反とも言える朝倉攻めに際には
情誼を優先して朝倉方に加担、信長の背後から攻めかかった。勇将の誉れ高く姉川合戦では奮戦するも
三年後に信長の再攻撃を受け、三人の娘を城外に落とした後力尽きて自害。

朝倉義景 (あさくら よしかげ)  天文二年(1533)〜天正元年(1573)

孝景の子で朝倉家五代。
さして暗君ではなかったが名族意識が強く、信長に対抗し姉川合戦で大敗。
信長の朝倉討伐の際には重臣の景鏡にも裏切られて一乗谷を脱出、越前大野・賢松寺に追い込まれて無念の自害。

浅野長政 (あさの ながまさ)  天文十六年(1547)〜慶長十六年(1611)

安井重継の長男で浅野長勝の養子となる。
豊臣家五奉行の筆頭で正室は秀吉夫人ねねの妹。
秀吉の信頼も厚く、九戸政実の乱や朝鮮の役の際には軍監を務めた。
家康と仲が良く関ヶ原では東軍に属し、後に家康の囲碁相手として重用されたという。

足利義昭 (あしかが よしあき)  天文六年(1537〜慶長二年(1597)

室町幕府第十二代将軍義晴の子で、第十五代将軍。
第十三代将軍義輝の弟。兄義輝暗殺時には出家の身であったが
細川藤孝らの手引きで還俗し、信長に担がれて将軍位に就く。武力を持たない割に陰謀癖があり、
やがて信長と対立して追放され毛利領備後鞆の浦に走り、これによって室町幕府は終焉を迎えた。
晩年は昌山と称し、秀吉の御伽衆として仕え秀吉傘下の一武将として世を終えた。

安宅冬康 (あたぎ ふゆやす)    ? 〜永禄七年(1564)

三好長慶の弟で淡路島炬口(たけのくち)城主。
三好(淡路)水軍を率いて活躍したが、
松永久秀の謀略により長慶から謀反の疑いをかけられて呼び出され、飯盛城で謀殺された。


尼子晴久 (あまご はるひさ) 天文二十二年(1553)〜天正六年(1578)

経久の嫡子政久の子で修理大夫を称す。
名ははじめ詮久(あきひさ)と名乗ったが、将軍義晴の偏諱を受け晴久と改名。
天文二十三年、毛利元就の謀略に掛かり重鎮国久・誠久父子ら新宮党を滅ぼして以来家運が開けることはなく、
毛利元就と一進一退の攻防を繰り返すが、防戦中に月山富田城で急死した。

荒木村重 (あらき むらしげ)  天文四年(1535)〜天正十四年(1586)

摂津池田氏六人衆の一人義村の子で織田信長の重臣。
通称弥介または信濃、のち摂津守を称す。
はじめ池田勝正のち織田信長に仕え、有岡城を居城として摂津国主となる。
天正六年に信長に背き攻撃されるが一人で城を逃げ出したため、妻ダシ(Daxi)や親類縁者は
尼崎七松で皆殺しにされた。茶人としても高名で、利休七哲の一人と伝えられる。

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