戦 国 大 名・武 将

丹羽長秀 (にわ ながひで)   天文四年(1535)〜天正十三年(1585)

長政の子。織田信長の重臣で幼名万千代、通称五郎左のち越前守を称す。
地味ながらも実力を持った武将で、信長の下では「米五郎左」と呼ばれ、天正三年には惟住姓を賜った。
本能寺の変以降は秀吉の協力者として活躍、賤ヶ岳の戦功により若狭・越前・加賀半国を与えられ
越前北ノ庄城主となったがそれも束の間、二年後に北ノ庄城で病死した。

丹羽長重 (にわ ながしげ)   元亀二年(1571)〜 寛永十四年(1637)

長秀の嫡子で通称五郎左衛門、加賀守・羽柴松任侍従を称す。
父長秀歿後に大封を相続するが、度重なる家臣の軍律違反により減封。
関ヶ原では西軍に属し失領するが、慶長八年に常陸古渡一万石を与えられた。
大坂の陣で戦功を挙げ、最終的には陸奥白川城十万石の主。

仁科盛信 (にしな もりのぶ)  弘治三年(1557)〜天正十年(1582)

武田信玄の五男で通称は高遠五郎、信濃の名族仁科氏を嗣いだ高遠城主。
勝頼を補佐し家臣にも慕われたが、斜陽の武田家を立て直すことは出来ず、
信長の嫡子信忠の指揮する大軍に攻められ、城兵共々奮戦したが落城、自害した。

新野親矩 (にいの ちかのり)    ? 〜永禄七年(1564)

駿河今川氏の一族で、遠江小笠郡新野新城の城主。代々左馬助を称す。
永禄五年に井伊直親が今川氏真に殺害されたとき、遺児万千代(後の直政)を引き取り養育したことで知られる。
しかし同七年、氏真に背いた曳馬(引馬)城主飯尾連竜討伐戦において戦死した。

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