戦 国 大 名・武 将

井伊直政 (いい なおまさ)   永禄四年(1561)〜慶長七年(1602)

直親の子。幼名万千代、天正三年に徳川家康に近侍として仕えて以来数々の戦功を挙げ、徳川四天王の一人として称された。
武勇に秀で「井伊の赤備え」と聞くと敵はみな戦慄したという。関ヶ原では西軍・島津義弘の退却時に
その殿(しんがり)を務めた島津豊久を討ち取ったが鉄砲で撃たれ負傷。
戦後近江佐和山城十八万石を領すが、慶長七年二月に合戦の傷が原因で死去した。享年四十二歳。

池田輝政 (いけだ てるまさ)  永禄七年(1564)〜慶長十三年(1613)

恒興の次男で妻は家康の娘。元は信長の近習で関ヶ原では東軍に属し緒戦の岐阜城攻めに活躍。
決戦では東軍先鋒を務めて奮戦、戦後その功により播磨一国を拝領し姫路宰相と呼ばれた。

石川数正 (いしかわ かずまさ)   ? 〜文禄元年1592

伯耆守。徳川家筆頭家老で軍政両面、特に外交に活躍したが、秀吉に対する方針で家中と対立、
さらに秀吉に内通したとのうわさが広まり白眼視されついには大坂へ出奔、
秀吉に仕えて後に信濃松本八万石を領した。

石田三成 (いしだ みつなり)  永禄三年(1560)〜慶長五年(1600)

正継の子。通称佐吉、天正十三年従五位下治部少輔に叙任。豊臣家五奉行の一人。
近江国石田村出身で豊臣秀吉側近の吏僚から台頭、秀次失脚後は近江佐和山城主となり十九万四千石を領した。
秀吉没後の慶長四年閏三月、前田利家が没すと朝鮮役で恨みを抱いた福島正則らに襲われ、仲裁に入った家康の裁断で
佐和山城に隠居した。関ヶ原では西軍の実質的指揮官となり徳川家康と戦うが、連合軍の足並みが揃わず小早川秀秋らの
裏切りにも遭って大敗。脱出行中に田中吉政の手に捕らえられ、十月一日に小西行長・安国寺恵瓊らと京都六条河原にて
斬首された。法名「江東院正岫因公大禅定門」、墓所は京都大徳寺三玄院。

今川義元 (いまがわ よしもと) 永正十六年(1519)〜永禄三年(1560)

氏親の三男。太源雪斎に学び、異母兄である玄広恵探(げんこうえたん)との後継ぎ争いに勝ち(花倉の乱)駿河国主に。
「海道一の弓取り」といわれ京風文化にも精通していたが、四万の大軍を率いての上洛途中に豪雨の桶狭間で休息中、
織田信長勢二千による奇襲を受け戦死。

稲葉正成 (いなば まさなり)  元亀二年(1571)〜 寛永五年(1628)

美濃十七条城主林政秀の子で、稲葉重通の婿となる。通称は八右衛門、内匠・佐渡守を称す。
はじめ羽柴秀吉に仕えるが、後小早川秀秋の家老となり、関ヶ原では煮え切らない秀秋を説得し
徳川方に付かせた。戦後秀秋に愛想を尽かし主家を辞し、家康に召し出され美濃羽栗郡で一万石を領した。
継室の福(斎藤利三の娘)は後の春日局。


石田正継 (いしだ まさつぐ)    ? 〜慶長五年(1600)

三成の父で豊臣秀吉の家臣、隠岐守。通称は藤左右衛門・佐(左)吾左衛門・太郎右衛門など諸説あり、
近江で三万石を領す。治政に優れ三成不在時の庶政を執り、また教養豊かな才人としても知られる。
関ヶ原の際には一族をあげて佐和山城を守るが東軍に攻め落とされ、城に放火して自刃した。

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