戦 国 大 名・武 将

小堀政一 (こぼり まさかず)   天正七年(1579)〜正保四年1647()

正次の子で従五位下遠江守、通称は遠州。宗甫・孤篷庵と号した。
近江小室一万二千石の領主で初め豊臣秀長、のち秀吉を経て徳川家康に仕え、主に普請・作事奉行として活躍、
仙洞御所・名古屋城天守閣・二条城御幸御殿などを建築した。古田織部に茶を学び、三大茶人の一人として数えられ、
また茶道遠州流の祖として知られる。とりわけ茶室の作事・作庭や茶器の製作に優れ、各地に作品が現存する。

小出吉政 (こいで よしまさ)  永禄八年(1565)〜慶長十八年(1613)

秀政の子で通称小才次、信濃守・大和守・播磨守と称す。
初め播磨龍野城主、のち加増転封され但馬出石六万石の城主となる。
関ヶ原の際には西軍に属し丹後田辺城攻撃にも加わるが、戦後東軍に属した弟秀家が戦功を挙げたため失領を免れた。

木造具政 (こつくり ともまさ)  生没年不詳

伊勢国司北畠具教の弟で伊勢木造城主。
織田信長の伊勢侵攻時に事前に信長に内通、具教と信長の間に立ち和睦を整えた。
後の小牧の役の際信雄に属して秀吉と戦ったことから所領没収して追放され、その後の消息は不明。

小西行長 (こにし ゆきなが)    ? 〜慶長五年(1600)

堺の有力商人・隆佐の次男で元は魚(とと)屋弥九郎と称した宇喜多家家臣。

受洗名アウグスティヌスを持つキリシタン大名で後に摂津守を称し、石田三成と親交があった。
関ヶ原の際には三成とともに西軍に属し、敗れて伊吹山中で捕らえられ京都六条河原で斬首された。

小早川隆景 (こばやかわ たかかげ) 天文二年(1533)〜慶長二年(1597) 

毛利元就の三男で、後に豊臣家五大老の一人。
山陰方面を担当した兄の吉川元春とともに毛利家を支え、山陽方面を任され毛利水軍を統率した。
朝鮮の役の際には碧蹄館の戦いにおいて明の大軍を撃破。
温和な人柄で、主君輝元や家中の信頼を集めた知勇兼備の名将。

小早川秀秋  (こばやかわ ひであき)  天正十年(1582)〜慶長七年(1602)

木下家定の五男で通称金吾中納言。初名は秀俊、北政所(秀吉の妻)の甥。
三歳の時豊臣秀吉の養子となるが、秀頼誕生により小早川隆景の養子となる。
関ヶ原の際には西軍に加担したが、徳川家康の催促と恫喝によって土壇場で裏切り、東軍大勝のきっかけを作った。
後に諸将から白眼視され、慶長七年失意のうちに二十一歳の若さで歿し小早川本宗家は断絶。
一説に、狂死したともいう。

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