戦 国 大 名・武 将

真田幸村 (さなだ ゆきむら)  永禄十年(1567)〜元和元年(1615)

昌幸の子で本名は信繁。妻は大谷吉継の娘竹林院。
関ヶ原合戦の際は父昌幸とともに上田城に籠城、徳川秀忠の軍勢を足止めした。
後に昌幸とともに紀州九度山へ配流されるが、大坂の陣の際に豊臣秀頼に請われて入城。
元和元年の夏の陣では赤備えの軍団を率いて家康の本陣に迫り、島津家の士に「真田日本一…」と
言わせたほどめざましい奮戦をするも、ついには衆寡敵せず力尽き安居天神境内にて戦死した。
その見事な兵の進退と鬼神のような武勇を敵からも讃えられ、遺品は髪の毛一本に至るまで奪い合いになったという。

真田昌幸 (さなだ まさゆき)  天文十六年(1547)〜慶長十六年(1611)

幸隆の三男で戦国屈指の策謀家。
元武田信玄の近従で初め武藤喜兵衛を名乗っていたが、長篠合戦で二人の兄が相次いで戦死したため当主に。
関ヶ原の合戦では西軍につき、戦後高野山へ流され九度山善名称院(真田庵)で病没。
『表裏なき人』と言われながらも謀略の限りを尽くし、小大名真田家を戦国期の荒波から守った名将。

真田信之 (さなだ のぶゆき)  永禄九年(1566)〜万治元年(1658)

昌幸の子で伊豆守を称す。幸村の兄で妻は本多忠勝の娘。
家康の上杉討伐時に世に言う「犬伏の別れ」で父昌幸や弟幸村と決別し、徳川方に付く。
関ヶ原の敗戦で切腹処分が当然の父や弟の助命に奔走、舅の本多忠勝(榊原康政・井伊直政とも)らの
後押しもあり高野山配流にとどめた。これ以後は徳川家に忠節を尽くし、後の松代藩真田本家の祖となった。

佐々成政 (さっさ なりまさ)  天文八年(1539)〜天正十六年(1588)

通称内蔵助。信長の重臣で、本能寺の変後は柴田勝家に属し富山城を預かる。
勝家と同じく秀吉嫌いで知られ、勝家滅亡後に秀吉に降伏。
肥後を任されたが失政により一揆が蜂起、鎮圧に失敗して秀吉からその罪を咎められ摂津尼ヶ崎にて切腹した。

佐久間盛政 (さくま もりまさ)  天文二十三(1554)〜天正十三年(1583)

盛次の嫡子で柴田勝家の甥、加賀国尾山城主。
信長からも属目された勇猛な武将で、鬼玄蕃の異名を持つ。
信長の越中攻めの際には前田利家らとともに奮闘、上杉方の松倉城を抜く。
しかし秀吉と対した賤ヶ岳の合戦では緒戦に中川清秀を討ち取るも、度重なる勝家の退却命令に背き深入りして大敗。
退却中に捕らえられ、京の市中を引き回された後に斬首された。

斎藤道三 (さいとう どうさん) 明応三年(1494)〜弘治二年(1556)

何度も名を変えたが、最終的には山城守利政。蝮の異名を持つ戦国屈指の謀将。
一介の油売りから身を起こし、美濃守護土岐氏に出入りを許されたことをきっかけに謀略の限りを尽くして
美濃一国を手中にしたとされるが、これは道三の父と二代にわたってのこととする説が有力。
娘は織田信長の妻。土岐頼芸の子との噂があった長男の義龍と対立し、長良川畔で戦って討死。

斎藤義龍 (さいとう よしたつ) 大永七年(1527)〜永禄四年(1561)

元美濃国主土岐頼芸の子とも言われ、その生まれをめぐり父道三と対立し、家臣団も二派に分かれた

しかし大勢は義龍に傾き、長良川河畔での道三との戦いの末その首を取る。
体が大きく合戦にも強かったとされるが、若くして病死した。

inserted by FC2 system