戦 国 大 名・武 将

京極高次 (きょうごく たかつぐ) 永禄六年(1563)〜慶長十四年(1609)

足利義輝・義昭の近習高吉の長男。
通称は小兵衛、若狭守・羽柴京極侍従のち大津宰相を称す。
本能寺の変の際に明智方に加担し旧領復活を策すが失敗、妹を秀吉の側室に差し出し赦された。
関ヶ原では一時西軍に属すが、翻意して大津城に籠城。しかし立花宗茂の猛攻の前に剃髪して開城した。
戦後家康より若狭小浜八万五千石を与えられた。

京極高吉 (きょうごく たかよし)  永正五年(1508)〜天正旧年(1581)

近江守護の名族佐々木六角氏の支流京極氏十八代当主で高秀の子。
足利義輝の近習を務め、義輝の奇禍の際には一条院覚慶(後の義昭)の還俗および将軍位就任のために奔走した。
しかし義昭に従っていたことから織田信長と対立するに至り、子の小法師(後の高次)を人質に出して蟄居したという。

吉川元春 (きっかわ もとはる)  享禄三年(1530)〜天正十四年(1586)

毛利元就の次男。
山陰方面の統治を任され、山陽方面を任された弟の隆景と「毛利両川体制」の一翼を担って
当主輝元を補佐した毛利家武闘派筆頭の猛将。上月城攻めでは降伏した猛将山中鹿介を護送途中に謀殺。
徹底した秀吉嫌いで知られ、その九州島津攻めの際に嫌々参加したが小倉の陣中で病死した。

吉川元長 (きっかわ もとなが)  天文十七年(1548)〜天正十五年(1587)

吉川元春の長男、少輔次郎。
十四歳の時に元服し元資と名乗り、天正元年に元長と改名。父元春に従って各地を転戦した。
秀吉の九州攻めの際に従軍したが、日向都於郡の陣中で病を得て四十歳の若さで没した。

吉川広家 (きっかわ ひろいえ)  永禄四年(1561)〜寛永二年(1625)

元春の三男で、兄元長の陣歿により家督を嗣ぐ。
通称少輔次郎または次郎五郎、初名は経言。朝鮮の役で活躍した勇将。関ヶ原では一旦西軍に属すが
毛利家存続のため家康と密かに内通して奔走、しかし結局は大減封された。
戦後輝元から周防岩国三万石を与えられたが、家中からは白眼視されたという。

吉川経家 (きっかわ つねいえ)  天文十六年(1547)〜天正九年(1581)

毛利家家臣で式部少輔。
織田家の山陰侵攻に窮して援助を求めてきた山名豊国に代わり鳥取城へ派遣されたが、
秀吉の干し攻めに遭いなすすべなく力尽き、城兵の助命と引替えに切腹して果てた。

北畠具教 (きたばたけ とものり)  享禄元年(1528)〜天正四年(1576)

多芸御所と呼ばれた伊勢最後の国司。
塚原卜伝門下の剣豪大名として名高く、将軍足利義輝とも交わりがあったと伝えられる。
後に信長の侵攻に抗しきれず、和睦したものの二男の信雄に家を譲らされ、
程なく信長の命で送り込まれた旧家臣達の手により居館の三瀬館において暗殺された。

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