戦 国 大 名・武 将
す
杉原家次 (すぎはら いえつぐ) ? 〜天正十二年(1584)
豊臣秀吉の臣。家利の長男で通称七郎左衛門。
秀吉の妻ねねの伯父で播磨三木城代・近江坂本城代のち福知山城主。
秀吉の側近で信頼が厚く、京都所司代や大坂築城時の御金蔵御番役も務めている。
一方、播磨三木城攻め、備中高松城攻めや鳥取城攻め等でも活躍、高松城攻めでは清水宗治切腹の検死役を務めた。
長久手の戦いに出陣中の天正十二年九月九日に陣没。
杉原長房 (すぎはら ながふさ) 天正二年(1574)〜寛永六年(1629)
家次の子で通称弥兵衛、伯耆守を称す。
豊臣秀吉の家臣で近江坂本・豊後杵築を経て最終的には但馬豊岡城主兼播磨三木城代。
関ヶ原の際には西軍に属し丹後田辺城攻めに加わるが、北政所の従兄弟で義父が浅野長政ということもあり本領安堵、
常陸小栗郡で三千石の加増を受けた。大坂の陣では寄せ手に加わった。
菅谷長頼 (すがや ながより) 弘治元年(1555)〜天正十年(1582)
通称九郎左衛門、名は菅屋とも書く。小豆坂七本槍の勇将織田造酒介信辰の子。
織田信長の近侍で主に行政官として活躍、後織田五奉行の一人に数えられた。
信忠付けとなった直後に本能寺の変が起こり、信忠と共に二条御所で討死した。
菅沼定盈
(すがぬま さだみつ) 天文十一年(1542)〜慶長九年(1604)
菅沼定村の長男。野田菅沼氏三代目。
土岐光兼 ― 資長 ― 定成 ― 定信 ― 定忠 ― 定則 ― 定村 ― 定盈
菅沼忠通の婿となり
菅沼を称す
長篠菅沼
田峯菅沼
野田菅沼
野田城主
父定村が弘治二年(1556)に雨山の戦いで討ち死にしたため、十五歳で家督を嗣ぐ。初め、今川義元に属し
桶狭間の戦い以後、徳川家康に従う。徳川家康の三河平定のため、さらに遠江進出のため尽力する。
永禄四年今川氏真、天正元年武田信玄、天正二年武田勝頼と野田で戦う。
特に天正元年の戦いは武田信玄の最後の攻城戦であり、また信玄砲の伝説など著名である。
三代目・定盈は新八郎で良いのですが、重要なのは定村の実子ではなさそうだと
それも確証が得られずに自信なさそうな書き方で高柳氏が記されている点です。
『菅沼家譜』・『寛永系図伝』どれから得たのか分かりませんが、追求の価値があるように思えます。
定村の弟・次郎左衛門の子と書いてます。事実なら『系図綜覧』で相当するのは新三左衛門でしょうか。
それと『系図綜覧』にあるもう一人の弟・三右衛門は、どうやら定円というそうです。
この三右衛門に関しては田峯の項でも出てきますが、もう一人、伝十郎までは確認できませんでした。