戦 国 大 名・武 将

十河一存 (そごう かずまさ)    ? 〜永禄四年(1561)

名は『かずなが』とも。左衛門督・讃岐守・民部大夫を称す。
三好長慶の末弟で、讃岐十河景滋の跡を嗣ぎ、同国十河《十川》城主となる。長慶の養嗣子義継の父。
『鬼十河』と恐れられた猛将で、その独特の髪型は『十川額』と呼ばれたという。
兄長慶・義賢を助けて各地を転戦活躍するが、永禄三年四月に若くして病没。
一説に、瘡を病み有馬温泉への湯治途中に落馬したのが原因という。法名『劒翁活公
宗活禅定門』。

十河存保 (そごう まさやす)  天文二十三年(1554)〜天正十四年(1586)

名は「ながやす」とも読む。
三好義賢の子で十河一存の養子となる。一存の跡を継いで十河城主となるが、天正十二年六月、長宗我部元親に
十河城を攻略され羽柴秀吉のもとへ逃げ込む。
秀吉の九州攻めの際には無理を承知で出陣し、豊後戸次川の戦いで島津家久の計略に掛かり討ち死にした。

宗 義智 (そう よしとし)   永禄十一年(1568)〜元和元年(1615)

義調の養嗣子で通称彦三郎、対馬守を称す。

のち従四位下侍従に任ぜられ羽柴氏・豊臣姓を許された。豪族で朝鮮との貿易により勢力を保つ。
朝鮮の役の際は秀吉傘下の外交担当役として奔走したが、その交渉中に病没。

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