戦 国 大 名・武 将

堀尾吉晴 (ほりお よしはる)  天文十二年(1543)〜慶長十六年(1611)

帯刀先生(たてわきせんじょう)。名は可晴とも書く。豊臣家三中老の一人。
秀吉の小姓より出世して遠江浜松十二万石の城主となる。水野忠重殺害事件に巻き込まれ、
三河池鯉鮒宿で加賀井重望に斬りつけられ負傷。後に孫で出雲松江城主・忠晴の後見役を務めた。

北条早雲 (ほうじょう そううん)  永享四年(1432)〜永正十六年(1519)

小田原北条氏の祖。
備中伊勢氏の出自で(異説あり)はじめ足利義視に仕え、室町幕府政所執事から身を起こし、
ついには大森藤頼の相模小田原城を奪い取って大名にまで昇りつめた戦国大名の典型。
ちなみに早雲自身は伊勢新九郎盛時(長氏とも)を名乗り、北条姓は子の氏綱から。

北条氏直 (ほうじょう うじなお) 永禄五年(1562)〜天正十九年(1591)

氏政の長男で小田原北条氏第五代当主。幼名国王丸、通称新九郎、左京大夫。
室は徳川家康の二女督姫。天正八年六月に父氏政の隠居により十八歳で家督を嗣ぐ。
天正十年、織田信長が倒れると滝川一益を神流川合戦に破り信濃・甲斐へと侵攻するが、
同十八年の小田原役では豊臣秀吉に敵せず降伏。高野山へ追放されたが翌年許され下野などで
一万石を与えられたが、病を得て同年十一月に大坂で病没。

北条氏康 (ほうじょう うじやす)  永正十二年(1515)〜元亀二年(1571)

氏綱の子で小田原北条氏三代当主。
信玄や謙信に一歩も引けを取らず、関八州の領土を守った。武蔵河越城の守将北条綱成の救援に向かい、
十倍もの敵を蹴散らした河越夜戦の奇襲は戦国合戦史に名高い。内政面では税制改革を行い、
北条氏の支配基盤を確固たるものにした名将。

北条氏政 (ほうじょう うじまさ)  天文七年(1538)〜天正十八年(1590)

氏康の嫡子で小田原北条氏第四代当主。
左京大夫、相模守。決して暗君ではなかったが、名族意識が強く秀吉からの再三にわたる上洛要請を拒否、
天正十八年(1590)秀吉軍に敵対し小田原城に籠城。七月に降伏開城し、弟の氏照と共に切腹した。

細川藤孝 (ほそかわ ふじたか)  天文三年(1534)〜慶長十年(1610) 

三淵大和守晴員の二男で幼名与一郎、細川元常の養子となり足利義晴・義輝・義昭に仕え、後に幽斎と号す。
将軍就任前の義昭(当時は覚慶)が松永久秀によって奈良興福寺一乗院に幽閉されていたときには一計を案じ、
無事に救出した。常に時の権力者の側について家を保った超一流の文化人武将で、
教養が深く朝廷からも信頼を寄せられた。『百人一首抄』など多数の著書も残っている。

細川忠興 (ほそかわ ただおき)  永禄六年(1563)〜 正保二年(1645)

幽斎藤孝の子で幼名熊千代、のち越中守。妻はガラシャ夫人の名で知られる明智光秀の娘・玉。
父藤孝に似て時の権力者に上手く取り入り、関ヶ原では東軍に属して活躍、
戦功により豊前小倉四十万石の主となる。元和六年に隠居して剃髪、三斎と号した。

本多重次 (ほんだ しげつぐ)   享禄二年(1529)〜慶長元年(1596)

徳川家康の家臣で通称作左衛門。
岡崎三奉行の一人でその性格から『鬼作左』と呼ばれ、秀吉の母大政所が岡崎に下向の際、
その居館に柴を積み上げて遇し秀吉から不興を買った。
彼による短文手紙の名文句『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』は有名。

本多忠勝 (ほんだ ただかつ)  天文十七年(1548)〜慶長十五年(1610)

忠高の子。徳川四天王の一人で上総大多喜のち伊勢桑名城主。
幼名鍋之助、通称は平八郎。従五位下中務大輔。徳川家武闘派筆頭の猛将で、
家康の三河時代から頭角を表し、その活躍は枚挙にいとまがない。
生涯大小五十余度の戦いをくぐり抜けてもひとつも傷を負わなかったといい
『家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八』と謡われた徳川家自慢の名将。

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