戦 国 大 名・武 将

三好長慶 (みよし ながよし)  大永二年(1522)〜永禄七年(1564)

ちょうけい』と読むことも多いが、『ながよし』が正しい。
元長の嫡男で、利長・範長・長慶の順に改名。通称孫二郎、筑前守・修理大夫。父元長の討死により
十一歳で家督を嗣ぎ近畿管領細川晴元の執事から台頭、摂津江口に三好宗三を討ち実権を奪う。
しかし嫡子義興ら相次ぐ身内の死と松永久秀の策謀の前に失意のうちに病死。
一説にはこれら一連の相次ぐ死は久秀による謀殺ともいわれる。

三好政長 (みよし まさなが)    ? 〜天文十九年(1549)

細川晴元の家臣で摂津榎並城主。
勝時の嫡男で勝長の弟。通称神五郎、越後守のち出家し宗三・半隠斎を称す。
大永七年、兄勝長・柳本賢治・三好元長らとともに管領細川高国・武田元光を洛西桂川畔に破り入京。
しかし台頭してきた長慶と対立、天文十八年摂津江口の戦いで長慶兄弟勢に敗れ討死した。
武野紹鴎門下の茶人としても知られ、松永久秀から信長に渡った名器『九十九髪』
は政長の所有品であったという。

三好政康 (みよし まさやす)    ? 〜元和元年(1615?)

下野守。頼澄(政長とも)の子でのち山城木津城主。
三好長逸・石成友通とともに三好三人衆と称され、釣閑斎宗渭を号す。
長慶の没後は義継を助け、永禄八年(1565)には義継・松永久秀らと将軍義輝を暗殺。
程なく久秀と対立して筒井順慶と組み、南都で久秀勢と激しく戦った。
同十一年の信長入京に際しては木津城を支えきれず阿波に逃亡。
翌年再び入京するが再び敗れ、阿波へ退いた。『二條宴乗記』には同地で没したと取れる記述が見える
が誤聞の可能性もあり、一般には後に豊臣秀頼に仕え大坂の陣で戦死とされる。

三好元長 (みよし もとなが)  文亀元年(1501)〜天文元年(1532)

長秀の子で、山城国守護代を務める。弾正少弼のち筑前守を称す。
大永六年(1526)に細川晴元を担いで阿波から挙兵、将軍義晴・細川高国勢を破り足利義維を擁して堺に幕府を開く。
享禄二年(1529)、柳本賢治らと争い一時阿波に帰国するが再び堺に上陸、高国を摂津尼ヶ崎に滅ぼした。
天文元年(1532)、対立していた晴元方の一向一揆に襲われ、堺顕本寺に敗死した。

三好義興 (みよし よしおき)  天文十一年(1542)〜永禄六年(1563)

長慶の子。諱はのち義長と改名。通称孫次郎、筑前守。将軍義輝の御供衆。
永禄三年に父長慶が河内飯盛山城へ移ってからは摂津芥川城主となった。
長慶唯一の実子で将来を期待されたが、永禄六年八月、芥川城にて二十二歳の若さで病死。
死因は黄疸とも側近あるいは松永久秀による毒殺ともいわれる。

三好義継 (みよし よしつぐ)  1551〜1573

長慶の甥で十河一存の長子。長慶の養子となってその没後家督を継いだが、実権は松永久秀に握られた。
永禄八年(1565)五月には久秀・三好三人衆らと将軍足利義輝を二条御所に襲って殺害。
信長上洛の際には一旦臣従し河内北半国を安堵されるが後に背き、天正元年(1573)十一月に居城の
河内若江城を佐久間信盛に攻められて自刃。享年二十三歳。妻(後妻か)は室町幕府十五代将軍義昭の妹。

水野勝成 (みずの かつなり)  永禄七年(1564)〜慶安四年(1651)

三河刈谷城主和泉守忠重の嫡子で、のちの福山藩祖。通称藤十郎、日向守を称す。
初陣以来猛将として名をとどろかせたが、やや性急で奇矯な性格から出奔、以後各地を放浪する。
関ヶ原の直前に父忠重の奇禍により三河刈谷三万石を嗣ぎ関ヶ原・大坂の役で活躍、大和郡山に六万石を与えられた。
のち福島正則の改易に伴い備後福山十万石の藩主となり、特に産業・経済面に力を入れて城下町福山発展の礎を築いた。

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