戦 国 大 名・武 将

藤堂高虎 (とうどう たかとら)  弘治二年(1556)〜寛永七年(1630)

和泉守。浅井氏に始まり徳川家外様筆頭となるまで7度も主家を変え、戦国を生き抜いた。
先見の明があり処世術に優れ、いち早く権力者に取り入り戦国の荒波を泳ぎ切った伊勢・津二十二万石の主。
築城の名手としても知られる。

藤堂良政 (とうどう よしまさ)   ? 〜慶長五年(1600)

通称玄蕃。
はじめ豊臣秀次に仕え、秀次失脚後に藤堂高虎から同姓の誼をもって伊予に招かれ仕える。
関ヶ原合戦時には高虎から留守を命じられたが、密かに後を追いかけて参戦したという。
関ヶ原合戦関連の諸書では九月十五日の本戦で島左近の子・新吉信勝と戦い、組み伏せられて討ち取られたと伝える。

徳川家康 (とくがわ いえやす)  天文十一年(1542)〜元和二年(1616)

江戸幕府初代将軍。
桶狭間での今川義元戦死を機に独立、織田信長の同盟者として信頼される。
信長の命により長男の信康を切腹させるなど幾多の試練にも堪え忍び、ついには秀吉の没後に諸大名を集めて
関ヶ原の合戦に石田三成を破り天下を掌握。1603年には江戸幕府を開き、
大坂の陣で豊臣氏を滅ぼして太平の世を築いた戦国の最終勝利者。

徳川信康 (とくがわ のぶやす)  永禄二年(1559)〜天正七年(1579)

徳川家康の嫡男。
英邁の資質を持っていたと伝えられ家康の期待も大きかったが、信長の娘である妻・徳姫の訴えで
母の築山殿とともに武田家内通の濡れ衣を着せられ、信長の命により遠江二俣城で切腹。
また築山殿は家康の命により遠江富塚で家臣に殺された。

戸田氏鉄 (とだ うじかね)    天正四年(1576)〜明暦元年(1655)

一西(かずあき)の子で通称左門、従四位下采女正。入道号常閑。
徳川家康に従って武功を挙げ、慶長八年に家督を嗣いで近江膳所藩主(三万石)となり、摂津尼崎藩五万石を経て
寛永十二年七月に美濃大垣藩十万石の主となった。大坂城修築や島原の乱の際に活躍、
また自領では新田開発や治水事業などを行い大垣発展の基礎を築いた名君として知られる。

戸田重政 (とだ しげまさ)     ? 〜慶長五年(1600)

勝隆の弟で名は勝成・勝重とも。
はじめ丹羽長秀、のち豊臣秀吉に仕え通称は半右衛門、武蔵守を称した越前安居城主。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し大谷吉隆(吉継)の指揮下で奮戦したが、織田有楽斎の子長孝に討たれた(一説に津田信成とも)。
東軍諸将に知己が多く、彼の死を聞いてみな泣いたという。

豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし)  天文五年(1536)〜慶長三年(1598)

関白、太閤。戦国一の出世人。
信長の草履取りから侍大将、大名と出世し、その重臣として中国方面司令官を務める。
本能寺の変の際には「中国大返し」と言われる早業で備中から軍を返し、山崎にて明智光秀を破る。
翌年賤ヶ岳にて柴田勝家を滅ぼし不動の地位を固め、天正十八年には小田原北条氏を滅ぼしついに天下を掌握。
しかし晩年に二度の朝鮮侵略の暴挙に出て失敗、その途中の慶長三年八月十八日に病死。

豊臣秀長 (とよとみ ひでなが)  天文九年(1540)〜天正十九年(1591)

通称小一郎、のち大和大納言。秀吉の弟で、兄の覇業を蔭で支えた最大の功労者。
特に但馬平定戦・四国攻め・九州攻めなどで活躍した。温厚な性格で人当たりもよく皆から慕われたが五十一歳で病死。
豊臣政権の事実上の治政実務を司った名補佐役。

鳥居勝商 (とりい かつあき)   天文九年(1540)〜天正三年(1575)

通称強右衛門(すねえもん)。
徳川家康麾下の奥平信昌(当時は貞昌)の家臣で、信昌の居城・長篠城が武田勝頼に包囲された際、
一命をなげうって援軍要請の使者を務めた。城を上手く抜け出して岡崎までたどり着き使命を果たすが、
帰城にあと一歩のところで失敗、篠場野で武田軍に捕らわれて磔刑に処された。

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