戦 国 大 名・武 将

片桐且元 (かたぎり かつもと) 弘治二年(1556〜元和元年(1615)

直政の子で通称助作、東市正を称す。
吉子飼いの武将で、賤ヶ岳七本槍の一人として知られる摂津茨木城主。秀頼の補佐役を務め、
地味な
がらも豊臣家安泰のため徳川方との交渉に奔走。しかし大坂の陣直前に淀君や大野治長らの
首脳から家康内通の濡れ衣を着せられ、弟とともに大坂城を退去。大坂落城の後、京で自刃したと伝えられる。

糟屋武則 (かすや たけのり) 生没年不詳

本姓は志村氏だが幼時に孤児となり糟屋友政に養育され、別所長治に仕えた。

通称は正之助のち助右衛門、内膳正を称した播磨加古川城主。名は数正・宗重・真安・宗孝・真雄とも。
天正五年に秀吉の小姓となり、賤ヶ岳七本槍の一人として数えられる。関ヶ原では西軍に加担し失領、
のち徳川家に五百石で仕えた。

加藤清正 (かとう きよまさ)  永禄五年(1562)〜慶長十六年(1611)

清忠の子で幼名虎之助、主計頭。秀吉子飼いの勇将で賤ヶ岳七本槍の一人。

「虎退治」など数々の逸話を残す。築城の名人として知られ、後の居城の熊本城は難攻不落の名城として特に有名。
大坂の陣の前に豊臣秀頼が二条城で家康と会見した際に警護役として随行、帰国直後に謎の急死。
ために毒殺説が囁かれたが詳細は不明。

加藤嘉明 (かとう よしあき)  永禄六年(1563)〜寛永八年(1631)

秀吉子飼いの家臣で賤ヶ岳七本槍の一人。
豊臣水軍を指揮し四国・九州征伐や小田原攻めに活躍、朝鮮の役では舟奉行を務めた。
後に家康の下で会津四十万石の主。

金森長近 (かなもり ながちか) 大永四年(1524)〜慶長十三年(1608)

初め通称五郎八、後には法印。
美濃国土岐氏の出自で初めは織田信長の家臣、本能寺の変後に飛騨国主となる。
茶や蹴鞠など諸芸に長じ、飛騨高山・越前大野などの城下町も建設した。

蒲生氏郷 (がもう うじさと)  弘治二年(1556)〜文禄四年(1595)

近江日野城主・賢秀の子。
織田家〜豊臣家に仕えた知勇兼備歴戦の名将で、後の会津九十万石余の主。
織田信長からも信頼されて次女冬姫を娶る。合戦の際には鯰尾の兜をかぶり常に先頭で奮戦したという。
家康嫌いで有名だったが、京で謎の急死を遂げたため、その知謀を恐れた秀吉に毒殺されたとの説もある。
また教養ある武将としても知られ、茶道では「利休七哲」の一人に数えられる。

蒲生賢秀 (がもう かたひで)  永正五年(1508)〜天正十二年(1584)

定秀の子で氏郷の父。元六角氏の重臣で近江日野城主。

信長の近江侵攻に際し、去就に苦慮したが嫡子氏郷の提言に従い主家と決別。
以後は忠実な信長傘下の武将として活躍、やがては近江一国をまかされるほどになった。

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