戦 国 大 名・武 将

村井貞勝 (むらい さだかつ)    ? 〜天正十年(1582)

長門守、のち春長軒を称す。娘は佐々成政の妻。織田信長家臣で京都所司代を務めた。
主に内政を担当、信長と将軍義昭の対立時にはその間を取り持ち、安土城築城などにも貢献した。
本能寺の変の際に信忠に殉じ二条御所で自害した。

村上景広 (むらかみ かげひろ) 弘治元年(1555)〜 寛永四年(1627)

名は成豊とも。隆重の二男で通称八郎左衛門、少輔五郎・弾正を称す。
「景」は小早川隆景の偏諱。兄吉種が側室の子だったことから家督を嗣ぎ、備中笠岡城主となる。
天正四年二月には足利義昭を警護して備後鞆の浦に送り、続いて同年の木津川海戦、
同九年の備前八浜合戦等に活躍した。関ヶ原の際には西軍に属して伊勢湾で活躍するが、
戦後浪人し慶長六年に細川忠興に招かれ豊前小倉一万石を領した。

村上隆重  (むらかみ たかしげ) 生没年不詳

左近大夫。能島村上氏三代隆勝の子ではじめ宗勝を名乗る。
のち小早川隆景より隆の字を拝領して隆重と改めたという。
備後田島天神山城から備中笠岡山城に拠り、笠岡掃部と呼ばれた(笠岡村上氏の祖)。
能島村上氏第五代当主武吉の叔父にあたり、若年時の武吉を助けてその家督相続に貢献、
のち小早川隆景の傘下に属した。

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