戦 国 大 名・武 将

能勢頼次 (のせ よりつぐ)   永禄五年(1562)〜寛永三年(1626)

摂津能勢丸山新城(地黄陣屋)城主で、摂津守を称す。
はじめ織田信長の下で明智光秀に属し、地元の塩川長満と交戦する。
後に秀吉→家康とうまく取り入り、関ヶ原では東軍に加担して本領を安堵された。

野村直隆 (のむら なおたか)  大永七年(1527)〜文禄元年(1592)

近江浅井氏の家臣。通称藤左衛門、肥後守のち出家し肥後入道を称す。
元亀二年には国友城に籠もり信長方宮部継潤の来襲を撃退。
主家滅亡後は豊臣秀吉に仕え、鉄炮頭を務め国友城二万石の主となる。
関ヶ原の際は西軍に属し、伏見城攻撃に軍監として従軍した。

野間長前

野間氏に関しては、摂津国の有力国人能勢氏の一族の野間氏が有名だが、関連は不詳。
松永久秀の与力であった時期もある。それ以前は、河内国の、遊佐長教の家臣であったとする説が有力であり、
その説に従うと「長前」の「長」の一字は遊佐長教よりの偏諱だとされる。元の名は康久であったとされているが、
野間康久という署名の入った文書は現存していない。発給文書の多くは、佐久間信盛や柴田勝家らと連名しており、
織田信長の家臣として新参ながら、高い地位を保持していたとされる。また、茶への造詣が深かったことが伝わっている。

野間左橘兵衛  (のまさきつひょうえ)    ?〜?

三好氏家臣。通称左吉。
訓みは「さきちべえ」でもよいが、何となく「さきつひょうえ」のほうが音に合うのでこの説を採る。
若江三人衆の一人。三好義継が信長と対立すると、1573年佐久間信盛に内通して義継を自刃に追いやった。
茶人としても知られ、1580年には津田宗及・山上宗二らと茶会を催している。ほか、信長より「燕絵」を拝領した。

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