魚住城
兵庫県明石市魚住町中尾
築城時代・南北朝時代と室町時代
城主・魚住長載『中尾≫
城主・魚住忠治≪西嶋≫
158
≪西嶋城≫
最初の魚住氏である魚住長範は、姫路城主・小寺頼秀の三男で、足利義詮が足利尊氏とともに
山名時氏と戦った文和四年(正平四・1355)の摂津の神南の戦いで討死にしている。
魚住次郎は嘉吉元年(1441)嘉吉の乱に参加し、戦死している。東播磨地方が織田信長の支配
に服するきっかけとなった、三木合戦が天正六年(1578)から二年たらずで、東播磨全域で
行われ、魚住の地は三木籠城軍に対する一大補給基地になったのである。魚住左近亮頼治は
海『港』に面した大久保町西嶋の赤根川によって切断された台地に築き、紀伊雑賀の軍勢を
迎え入れている。≪城山≫と呼ばれている極楽寺背後の地である。三木合戦時の魚住城主と
しては、魚住左近≪播磨鑑≫・魚住大夫房≪ト部家譜≫・魚住左近大夫房≪赤松幕下集士録≫
の名がみえる。おそらく頼治と同一人物であろう。この頼治が最後の魚住城主であった。
天正八年(1580)に三木合戦は別所方『三木城』の敗北に終り、魚住城は廃城となった。
龍野城で汗をビッショリと掻き、室津港で海鮮料理でお腹いっぱいになったところで、みんなが
探しにくいといわれている、魚住城に挑戦してみょう。ナビには魚住城で登録してあるので、
取り合えずナビに示されている場所に行く。近くに行くにしたがい道が狭くなる。狭くなると言うか
通れない!。いや、通せないようにしている!。外壁の下にブロック・大きな石などを置き、
普通車は通れないが、小型車にして何とかタイヤをカスリながら左右に細かくハンドルを切り
進み、ナビの示してる場所まで来たが、そこは普通の民家だった。困り果てて車から降りたいが
ドアが開かず!。そこにグットタイミングで、そのお家の方が帰って来られた。失礼ながら車の中
から『魚住城はどこですか?』と尋ねると、『車で着いてきてください』と早足で歩き出した。
慌ててアクセルを吹かす。お家から500mほどの所の公園で止まり、
『ここがそうです』と言われた。『まえは、もう少し海側の分かりに
くい所でしたが、5年前にここに移された』と説明をしてくれました。
私見・登城日2005・09・11 作成日2005・09・25 編集ひ2006・02・26
て・さ