都志城
兵庫県洲本市都志大宮
室町時代後期・都志氏
山城 標高124m
比高115m
052
≪三山城≫
都志城は文明年間(1469〜86)から天文年間(1532〜56)まで、都志与七郎春家・子対馬守・孫九郎兵衛
など三代八十年余り栄えた城と伝えている。菩提寺長林寺には文明十九年(1487)の都志与七郎春家の
寄進状がある。城主の没落は天文年間、反三好方と大坂・京都で戦い戦死した説と、大殿屋敷の焼米
出土の言い伝えから都志城で、華々しい攻防戦が繰り広げられ、没落した説の二説がある。≪味地草≫
によると、廃城後遺子三人のうち長男与太郎は播州の森家に百石で仕えた。次男半右衛門は郡家城主
田村氏に仕えたが、田村氏減亡後は孫助太夫とともに洲本城主脇坂氏に仕えた。脇坂氏転封後は
都志万歳に留まった。三男又兵衛は菅平右衛門に育てられ、文禄・慶長の役・関が原の戦い・大坂の陣
に従軍。その後、備前城主池田氏に仕え、二百石を賜ったという。このようにして、城主の一族は離散して
しまったが、都志に定住したのは江戸時代後期の諸文献には、≪味地草≫二男半右衛門と号せしが‥‥
其末葉万歳村に居住し、都志氏を号す。当時交名類右衛門の祖也。
私見・登城日2003・05・02 作成日2003・06・28 編集日2006・03・05
私見・登城日2005・08・15 作成日2005・09・03 編集日2006・03・05
淡路島の実家で、前の山も城山だよ。と聞かされ、早速役場に走り資料をもらう。そのあしで
長林寺に行き、寄進状を見せていただいた。城郭の場所を住職さんに教えていただき、
行って見ると大きく立派な都志氏の碑が建っており、感激した!。曲輪・碑の写真を撮り、
意気揚々と引き上げてきた。でも、30年も知らなかった?。まして家の前の山に城跡が
あるなんて!。あとで調べると、淡路島には69城の城跡があった。うち6城攻略
都志氏の碑
都志城の曲輪
三山『城山』
て・さ
都志氏の碑
編集日 2010年12月19日