日本城巡り
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三木城

兵庫県三木市上の丸町

119

≪釜山城≫

天正六年(1578)城主・別所長治

丘城


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織田信長の中国攻めの大将羽柴秀吉を敵にまわした三木城主別所長治は、天正六年(1578)

から三年にわたる攻防に、難攻不落を誇っていたが、『糧道断ち』という城攻めで破れ、落城した。

これが世にいう『播州三木の干殺し』で、戦国合戦史上まれにみる、悲惨なものであった。

‥‥十余日食事を断ち、諸侍の乗馬を差し軍兵糧に与えしかどもかなわず、軍勢力弱まり、

塀の下、狭間の陰に伏し倒るありさま哀れなる次第也。と『別所長治記』は記している。すでに

籠城一年半たった翌七年秋には、兵糧は底をついていた。籠城の兵七千五百といわれたが、

支城の神吉城・高砂城・端谷城が次々に落ち、兵は三木城へと逃げ込んできた。それが秀吉の

作戦でもあったが、兵糧があれば生き延びられる。しかし最大の命綱であった丹生山明要寺が

焼き討ちにあい、食料運搬人の稚児衆まで殺されてしまった。天正八年(1580)別所長治は、

やむなく、城兵の助命、領民の安堵を申し入れ、自分と一族の自刃で開城した。


私見・登城日2004・10・17  作成日2004・11・07  編集日2006・03・05

姫路城からの帰りに帰省ラッシュに巻き込まれ、山陽道・中国道も渋滞が続くので、やむなく

一般道に下りる。一般道は順調に進み三木辺りで進まなくなった。三木市内に入り、三木城が

ナビに映し出される。時間的には行けるかも?。だが、ダンジリが国道に出て練りまわしている

回り道を探し三木城に向かって路地裏をジグザグ運転。ようやく三木城の表示板が見えてきた

坂を上り稲荷神社の手前で車を停め、リュックを背負い境内に入ると、別所氏の銅像が建っていた。

その奥に天守台・その奥に井戸・土塀とある。ビデオ・カメラと交代に撮影をしていると、60歳前後の

方が近づいて来た。聞くと三木市の教育委員会の方とか。城の説明をしてくれるらしい。遺構は

井戸だけで、井戸はカンカン井戸といい、下の川原まで続いていた。三木合戦の時、別所氏が

この城に籠城して家来が川で魚を釣り、井戸から城内に運び

入れていた。また、カンカン井戸の由来は、石を投げ込むと

カンカンと音がするのでカンカン井戸と名がついたと教えて頂いた。


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