福原城
兵庫県佐用郡上月町大坪字福原
≪佐用城≫
元弘三年(1331)築城者 作用兵庫介範家
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中世に築かれた代表的な『平山城』で南面に川、背後に山の城堅固の立地で、空堀・防塁・馬落とし
よくその原型をとどめている。元弘三年(1331)四月二十八日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の
総大将名越尾張守高家を、ただ一筋に討ち取った、佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、
赤松三十六家衆のうち福原氏が、この城を継いだので福原城といわれている。
戦国時代末期、東西の勢力拮抗の挟間で、西の上月城・南の高倉城・東の利神城とともに赤松一統
の城郭群を形成していたが、天正五年(1577)十一月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城し
その役割を終えた。後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚【ふくはらとうまのじょうの
りなお】の首級を祀るため城跡に一社が造営され、『福原霊社(俗に頭様)こうべさま』として今に広く
崇敬されている。
私見・登城日2004・04・25 作成日2004・07・04 編集日2006・03・17
松江城からの帰り道、19時を過ぎた時佐用城の看板を発見!。急ブレーキをかけたが、100mほど
行き過ぎて止まった。国道の交通量の多い場所での100mのバックはキツイ、が、そこは城の魅力
がバックを可能にしてしまった。付近を探すが城跡らしいところが見つからず、あきらめかかっていた
時、幸運の女神が民家のカーテンを閉めていたので聞いてみると、その前の神社がそうらそい。
お礼をいい、車を路上に止めたまま、その神社に走った。鳥居をくぐると佐用城の標示版を発見!。
シャッターを切る時は、もちろんフラシュは発光していた。帰りに、その女神こと、民家の人にお礼を
いい、言い伝えなども聞かしてもらった。
福原城跡