枝吉城
兵庫県神戸市垂水区枝吉4丁目
室町時代中期 城主・明石氏
≪明石古城≫
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丘城 標高 26m
枝吉城は明石氏の本城で、大手口が東正面の平地に面して築かれた丘城である。明石川西岸台地の
支脈突端部『標高二十六bにあり、明石川水系の平野における要害の地に位地している。城跡である
城山は、玉津土地区画整理事業によって台地の大半を削り落とされ、見る影もなくなっている。台地の
裾には神本神社・吉田郷士館・常簒寺・報恩寺などが建っている。
廃城は天正十四年(1586)頃で、前年の国替えによって明石則実が豊岡に移り、代わってこの城に
高山右近重友が入った。この重友が最後の枝吉城主で、船上築城に着手し、その完成を持って移った
ことにより、一世紀半にわたる城の歴史を閉じたのである。
私見・登城日2005・09・11 作成日2005・10・01 編集日2006・03・05
枝吉城の読み方が分からなかったが、地区に入って『しきつ』と書いてあった。心の中では『えだよし』
と思っていた。枝吉城は誰の城か、まだ分かっていなかったので確認するのにやって来た。
枝吉城の位地はナビに入力してあるので、船上城からは、スムーズに来れた。
神本神社になっていて、その神社の由来書に枝吉城と書いてあった。あとでわかった事だが
神社は、一段高い所にあって、区画整理以前はその東と北を掘り『トク池、明治7年(1874)に埋める』
で囲まれていた。トク池は広大で、旧道からの進入路を食い違い道にしているので、容易にせめられ
ない。
≪その歴史的に有名な三木街道に車を停め、登城してきた!。≫