篠山城
兵庫県多紀郡篠山町北新町
慶長十四年(1609)築城者 徳川家康
≪桐ヶ城≫
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慶長十四年(1609)三月九日。その年の十月半ばにはほぼ完成したという。普請総奉行は、家康の
女婿池田輝政。縄張は築城の名手といわれた津城主藤堂高虎。そして山陰・山陽・南海の三道
十五カ国、二十の大名たちに助役をさせ、約四百万石に相当する大名が労役した。古記録によると
『百人に一本宛印を持たせ御普請割配す。総勢八万人』とあり、百人を一組といて八百組、総勢
八万人という莫大な労力と助力を投入した『天下普請』の突貫作業だった。
初代城主は、八上の松平康重が入城。城下町の建設には、四十年もかかっている。
築城秘話として当時、王地山・篠山・飛ノ山の候補があがった時、家康は『東に王地山があるのは
武運長久のしるしである』と、一番低い篠山を選んだ。
私見・登城日2002・09・29 作成日2002・1012 編集日2006・03・05
竹田城からの帰り道に寄ったが、大書院が時間切れで入れず。城郭の散策のみになってしまった。
本丸跡・天守台・二の丸・石垣・犬走りと見ていたが、7時過ぎになってうす暗くなってきたので
引き上げることにした。さすが築城の名手の縄張に関心させられる。切込ハギの高石垣・土壌が
軟弱なために広い犬走りを設け、これまで築城してきた城の長所を、この篠山城に取り入れている
ように思えた。
平成12年完成の大書院には入れなかったが、これだけの縄張を見れた事で、大満足で帰路に着く。
大書院
石垣の刻印
大書院と高石垣