尼崎城
兵庫県尼崎市北城内・南城内
≪琴浦城≫
037
元和三年(1613)戸田氏鉄
源頼朝に追われた義経が流浪の船出をした大物浦は、尼崎浜の隣で、このあたりは
平安末期に開拓されたところである。大物浦は材木の集積港だったが、やがて材木の
取引は尼崎に移り、それ以来尼崎は、西国から京・大坂へ向かう水陸両交通の要所
として、また港町として発展した。ことに応仁の乱以後は、多くの武将たちが陣地とし
たために、しばしば戦場となり、相次ぐ戦乱に巻き込まれた。その後、信長が永禄十二年
(1569)に尼崎の町を焼き討ちにしている。豊臣秀吉は、大坂城築城の祭、西摂津の要所
として尼崎に建部氏を配した。だが元和三年(1617)代わって入封したのが戸田氏鉄で、
この時、一国一城令のさなか、本格的な築城がなされたのは、この地がいかに≪西の守り≫
の重要地であったかがわかる。が、在城十八年で美濃大垣城に移る。続いて青山氏・杉本氏
と続く。遺構として旧三の丸の桜井神社につたわる九曜鬼瓦と内掘にあった琴城橋の橋脚を
使った城址碑が旧本丸の学校敷地に建つのみである。
私見・登城日2002・10・12 作成日2002・10・24 編集日2006・02・26
尼崎城は庄下川沿いにある。模擬石垣の上に市立尼崎中央図書館が建っている。周辺を散策すると
三の丸公園・城内小学校・城内中学校・北城内・南城内と地名ではかなり残っているようだ。
石垣・土塀と堀跡
土塀に狭間が設けられている
橋桁で造った城址碑
尼崎城碑