松山城
備中
岡山県高梁市内山下
020
≪高梁城≫
現存天守
1683年
仁治元年(1240)
築城者・秋庭三郎重信
11月17日、岡山県で趣味の会の忘年会に出席し、そのまま高梁に向かった。真夜中の2時頃、登城しかけたが
なにか胸騒ぎで足が進まず車に戻る?。態勢立て直して、二度目の登城開始。まったく前が見えず足元が滑る。
一歩・一歩足元を確認しながらの登城。寒い・暗い・氷で足が滑る。何かの気配はするが、真っ暗闇で確認できず。
落ち葉がサラサラと落ちてきて、顔にあたり、ドキッ。 前に何かが立っている。 近づくと 『よくぞ参られた』
の看板がどうにか読めた。その前が足軽門、明るさが増してきた。ここまでの所要時間、約1時間。
だが、よ〜く見ると、工事中である。鉄パイプが石垣や登城道の補強のため張り巡らされている。現存の
土塀沿いに進み二の丸迄来ると、ここから本丸・天守が望める。天守には入れそうも無いので搦め手を見る。
この城を見ていると、人間の力は凄いと思う。天守は小さいが迫力は天下一品である。午前5時過ぎ帰り道の途中
一人の男性が、汗ビッショリになって上がってきた。『まだ だいぶありますか?〜』私が、『この辺りで半分です』
の声に、その場にヘタリ込んでしまった。悪い事を言ってしまったと思ったが、本当の事だから頑張って!。 て
私見・登城日2004・03・07 朝3時着・7時に天守に入る 作成日2004・03・24 編集日2006・05・05
私見・登城日2001・11・18 朝4時40分二の丸に入る
作成日2001・11・29 編集日2006・05・05
この臥牛山は中国山脈の端にあたり、高梁川の左岸に
そそり立っている。古から大松山・小松山と呼びなわされ
ていたもので、山陽と山陰をつなぐ水運流通の要衝であり、
沿岸の間道も古来、かぎりない軍勢の往来による合戦の
場になった。その要地だからこそ、剣ヶ峰への築城も必要
であり、実際、ここの立つと備中松山城下が俯瞰できるし
眼下を蛇行する高梁川に合流する成羽川も望める。
その合流点の渡し場で、山中鹿之助が不意打ちの斬撃を
うけるのである。中国地方の西部を掌握した毛利一族と、
中央覇権の織田・豊臣との争いは、戦国末期のこの地方の
彩るものだが、それ以前にも大内氏と尼子氏の争いに
なっている。備中の悲劇ともいえよう。
この城に蟠居した三村元親が、難攻不落を誇りながら毛利の
大軍によく坑したものの内部からの裏切りが出て落城。
そうでなかったら、毛利輝元も匙を投げたにちがいない。
二の丸から雲海を見る
天守内の囲炉裏
自宅を真夜中に出発。島根の松江城に行く予定だったが、米子自動車道がアイスバーンのため通行止め!。
一般道に迂回するが、雪・アイスバーンで進む事が出来ず、備中城巡りに切りかえ、この松山城に来た。
駐車場で仮眠を取り、6時過ぎから城に向かう。振り返り車を見ると、フロント・ナンバープレート、グリルが雪で
完全にかくれていた。よくぞ引き返してきたと!、又、良き判断をしたと!、自分で自分を誉めてやりたいような〜。
今回は、息子と二人での登城という事で、力強く天守を目指す。鞴駐車場に車を停め、自然歩道で登城開始。
30分程で天守に着く。あれ〜、こんなに近かったのかなぁ。そうか、前回は真夜中の足元がわからない状態での
登城だったので、時間も倍ほどかかってしまったのか。二の丸から本丸を見ると、門が開いてたので入る。
券売所では、早くもスタンバイしている。時計を見るが、まだ7時前なのに、でも良かった早くに登城できて。
入城料を払い、本丸に入ると掃除をしている方が六の平櫓に、お茶がありますから、御自由にお飲み下さいと
六の平櫓に案内された。ポットには早くもお湯が沸いており、茶葉を入れ熱いお茶を頂きながら、ビデオを見る。
この備中松山城の皆さんは、朝早くから用意されてるのには、感激しました!。 さ・て
駐車場 無料 入城料 300円
高梁川より臥牛山に広がる雲海を観る
工事中の本丸
工事中の大手門横の石垣
天守の石落し
写真編集 2006・11・25