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経山城
岡山県総社市黒尾
天文年間(1532〜55)
築城者・大内義隆
標高372m 山城
≪京山城≫
大手道
本丸跡
経山城は、吉備高原の南端標高三七二.七bのところにある。
北には新山・岩山・鬼城山など標高四百b級の山が連なり、
頂部からは南の眼下に総社平野が一望でき、西には南流する
高梁川を視界に捉える事が出来る。背後の各峰は平安期には
山岳仏教の霊場であった。そして近接した南のこの山に、
多数の経塚が築かれた事に由来して、城名は経山城と呼ばれた
この城は、天文年間に大内義隆によって築かれたと『備中府志』
に記されている。のち毛利氏の所領となって元亀年間(1570〜73)
に毛利氏の雄将小早川隆景がこれを修築して二階堂近江守氏行
・中島大炊介元行らを城代に据えた。
毛利氏の東辺の押さえとして、この城は重要な位置をしめていた
ようである。廃城の時期は定かではないが、おそらく天文十年
(1582)の高松の役の時、羽柴『豊臣』秀吉と毛利氏が和睦し、それを機にこの地が宇喜多氏の領地となって
延原土佐守に与えられたので、城は破却されたのであろう。この城をめぐる攻防戦は大きく二つにわけられる。
第一回は、天文十二年(1543)。ついで第二回の合戦は、元亀二年(1571)に起こった。
私見・登城日2004・03・07 作成日2004・03・30 編集日2006・05・06
備中松山城から備中高松城に移動中に、ナビによって見つけた城である。城巡りをしていて
ナビで見つけた城も数多く登城してきたが、中にはとんでもない場所で、あきらめきれない
城も中にはあった。城巡りは時間との戦いでもある、移動途中に、山が深くてとんでもない事
になったこともあった。昼間は良いが、夜の山城はなるべく行かないようにしている。
この経山城も夜だったら、あきらめていただろう。車でかなりの所まで行けるが車を停めて、
30分程歩くと本丸に着く。本丸からの眺めは最高である。途中のきびしい坂道、汗を掻き
足が棒のようになりながら登城しても、本丸からの眺めが開けていれば、何も言う事は無く
自然と鼻歌が出てくる事もある。
遺構は、堀切・曲輪・石垣と確認でき、大満足の成果であった。
次は、隣接している鬼ノ城に向かう。