日本城巡り

021

高松城

備中

≪沼城≫

永禄末年(1570頃)
築城者・石川久弐

岡山県岡山市高松511-1


津山城 鬼ノ城
備中松山城 勝山城
備中高松城 岡山城
経山城

天正十年(1582)中国征伐に乗り出した織田信長の

先鋒は羽柴秀吉が、毛利の勢カ下にあった備中に

攻め込み、備前国守宇喜多氏とその麾下の諸将も

加わり、播磨・但馬・因幡の兵を合して数万の大軍で

国境の毛利方七城を次々に攻略し、高松城を囲んだ

時に四月二十七日であった。

高松城はこれより先、備中松山城の三村氏備前の

宇喜多氏に対抗して永禄末期(1570)頃、有力武将

の石川久弐に築城させたと伝えられる。

天正三年(1575)に久弐が三村氏とともに毛利氏に

より減亡すると、久弐に従っていた国人の清水宗治が

毛利氏に属して城主となっていた。

秀吉は五月七日、この沼地の足守川を塞き止めて、

城を水没させる戦略をとったのである。築堤は八日に 

始まり、提の高さは城地を没し、さらに浸水せしめる二十四尺【約七b】とし、五月十九日に完成し、川水は

城下に流入し、城壁をひたひたと浸し始め、城は湖中に孤立し家中屋敷にも浸水し始める状態となった。

六月二日、明智光秀により本能寺に織田信長は斃れ、この報は翌三日の夜半に秀吉に達していたが、

秀吉はこれを秘して清水宗治の切腹を見とどけ、毛利との和議を成立させて五日には東軍は撤兵し、

秀吉は備前の沼城に入り、やがて山崎の合戦に至るのである。

高松城内史料館の全景

高松城水攻めの図


私見・登城日2001・11・18  作成日2002・02・10  編集日2006・05・06
私見・登城日2004・03・07  作成日2004・05・05  編集日2006・05・06
私見・登城日2005・04・10  作成日2005・05・08  編集日2006・05・06

2001・11・18の登城した時は朝8時に着き、駐車場に車が一台だけという寂しい感じがしたが、資料館の方に

温かく迎えて頂き、4時間のお話の時間をつくってくれました。二度目の登城の時は、吹雪で外に出れず、

この時も2時間ものお話を聞かして頂きました。三度目は、資料館の開館時間に間に合わず≪9時〜3時≫

顧問の林さんの自宅でのお話となり、堤は2.8qも造っていない自然に出来た提に300m程を造っただけと

きっぱりと言い切る。又全国の城に関して把握されているようで永年悩んでいた事も解消され、午後6時に

お礼を言い、帰路に着いた。しかし86歳の年齢であれだけの事を把握され、即回答できるのはすごい

inserted by FC2 system