滋賀県彦根市佐和山町
建久年間 築城者 佐保時綱
070
山城232m
永正・大永(1504〜20)のころ、六角氏の拠点となったが、浅井氏の影響が強まりだしたのちの
佐和山城は、その支城とされ、ついには、浅井氏の家臣磯野貞昌が入城するまでになった。
石田三成が佐和山城に入ったのは、秀吉から北近江四郡『坂田・犬上・浅井伊香』に知行地を
得た、天正十八年(1590)七月である。このころは、城は荒廃していたという。三成は、その城を
律義に北陸・近江のおさえの使命をもつ城郭にふさわしいものに、築きなおした。つまり、本丸を
中心に手堅く二の丸・三の丸などの櫓を配したわけだ。だが、慶長五年(1600)関が原の役で
西軍の将となった三成は惨敗を喫し、城は東軍の手に渡った。この時城を守っていた三成の
父正継・兄の正澄が、本丸の下の、崖『女郎谷』から身を投げ自害したといわれる。
私見・登城日2003・09・23 作成日2003・10・27 編集日2006・02・05
佐和山城の登城道がわからず?、滋賀県警に飛び込む!。県警で大手道の碑もありますよ!、登城は
お寺の方からがベストだと聞き、まず、碑を探す。かずらに埋もれた碑を発見!。近くで稲刈りをしている
方にたずねると、大手道からの登城は無理だと言われ、泣く泣く搦手にまわるが、迷う事40分余り。
無料駐車場に車を停め、登城開始。お寺の側道に石田三成公の像を右手にして進み、薄暗いお墓の中
を通って、行くと登城道らしい道に突き当たる。この道が搦手道で右折して所要時間は1時間程度。
本丸からの眺めは最高であった。帰りに新聞に載っていた石垣を見つけたいと思ったが無理だった。
堀切
石田三成公の像
大手道と佐和山
煙硝櫓跡
本丸
本丸からの展望