日本城巡り

合戦

横須賀城


091

静岡県小笠郡大須賀町・松尾町

天正六年(1578)
築城者・横須賀康高

平山城 標高25m

天主台跡で

川石を上手く積み上げていて見事であった

横須賀城は、小笠山山塊の南の枝尾根がまさに遠州灘に迫ろうとする地に築かれた。

北に小笠山の山並みを背負い、南は遠州灘に臨み、海岸線を東に進めば相良に通じ、

西進すれば浜松へ、北西に向かえば袋井・見付から天竜川を渡って浜松にたっし、また、

東北に位置する高天神城の喉元を扼する。この城は、徳川家康が武田氏の拠点

高天神城の奪還を企図して急遽馬伏塚城を廃し、部将大須賀康高『馬伏塚城主』に命じて

天正6年に築城した城郭であり、初代城主大須賀康高以来、明治2年(1869)の廃城まで続いた。

松尾城・両頭城ともよばれる平山城で、中世から近世へ移行する時期の城で、両者の特色を

遺構に多くとどめている。康高は、徳川家康の偏諱を授けられ、また娘を榊原康政のもとに

嫁がせた大須賀康高は、康政と共に先鋒となり諸所を転戦し、横須賀城を守り

天正17年6月23日没した。康高に男子がなかったことから、康政の長男《一説に二男》忠政が

遺領を継ぎ、同18年8月徳川家康の関東移封によって、上総国久留里3万石に転じた。その後

には、豊臣秀吉の臣で関白秀次付きの渡瀬『横瀬』繁詮が3万石で入城するが、文禄4年(

1595)7月秀次事件に連座し改易となった。ついで秀吉の命により繁詮の家臣有馬豊氏が

《これより前、秀吉から直接3000石給されていた》渡瀬家臣団および横須賀

3万石《一説に3万000石》をそのまま与えられる幸運をつかんだ。時流を鋭く読む豊氏は、

秀吉没後、徳川家康に接近し、家康の養女【松平康直の娘】を室に迎え、

関が原の役では東軍に属し、戦後、慶長5年(1600)12月、丹波福知山6万石に加転となった。


私見・登城日2004・03・20  作成日2004・04・06  編集日 2006・05・27

夕方になってきたので、横須賀城が今日の最後になりそうだ。この城の石垣は特徴がある。

海の石を丁寧に積み重ね、高石垣に積み上げている。多分、海が近いので使ったのだろうが

崩れやすい海の石を10m近い高さに積まれた石垣には関心又見事である

駐車場6台 無料  入城料 無料

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