日本城巡り

合戦

山中城


静岡県三島市山中

073

永禄年間(1558〜70)
築城者・北条氏康

三の丸の空堀

三の丸の由来書

永禄年間に、小田原本城の西方防備のために、箱根の天険を利用して築城されたと考えられる。この時の

規模や縄張りについては不明である。後北条氏は、氏康の時、俗に、『箱根十城』と称される城砦群を箱根

連山の内外に築城配置し、その要になる根城を鷹之巣と山中二か所に築いたという。山中城の役割として

は韮山【にらやま】城・鷹之巣城の《伝えの城》としての要素を持つ一方、箱根口の関門として重要な存在

であった。北条氏康は山中城を番城としていたが、やがて三家老の一人、松田右兵衛大夫康長を城番とし

北条氏勝{相摸玉縄城主}を城主とした。のち山中城は天正期に入ると、漸次修築や拡張によって防備が

増強されていったことが多くの古文書によって知ることができる。天正18年3月初旬、豊臣軍は伊豆に侵入し、

韮山城を包囲した。秀吉軍の箱根攻めの主将には徳川家康があたり、山中城攻め総大将は豊臣秀次

これに中村一氏・田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らが従った家康が山中城攻めの総大将という

同年3月28日、秀吉は家康と共に山中城の地形を巡見し、長久保城に入り、織田信雄に韮山城を攻めさせ

ている。山中城攻城戦は3月29日に行われた。山中城の守将は松田康長『北条家の老臣松田憲秀の甥』、

さらに北条氏の重臣朝倉元春・間宮豊前守康俊・同信俊・同信冬・同信重や七家老の一人多米(ため)氏

の将多米長定・長谷川近秀らが立て籠もった。三の丸には、元和6年(1620)、山中城攻防の戦いの戦死

者のため了的和尚が開山となって宗閑寺が建てられ、松田康長・長谷川近秀・朝倉元春・

間宮康俊・信俊・信冬・信重・多米長定・追沼氏雅・一柳直末らの墓がある。


私見・登城日2003・11・23  作成日2004・02・21  編集日2006・05・27

突然にナビに移す出されて城跡で朝の6時過ぎだったので寒さと眠気で近場の撮影で車に戻り、

小田原城へと車を進めた。帰って来て、写真の整理をしていて、山中城の写真を見てビックリ!。

あの畝堀で有名な山中城の堀を撮り忘れた〜。と言うより、撮る気が無かったように思える。

次に行けるのはいつの事だろう。

国道1号線沿いの三の丸駐車場 無料  入城料 無料

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登城日 平成十九年(2007)十月〇七日  編集日 平成二十年(2008)一月二十日
登城日 平成二十年(2008)一月十四日  作成日 平成二十年(2008)一月二十日

山中城の岱崎出丸から畝堀(約10m)下に滑り落ちる。そこで見た光景は、上から見た感じとは全く違った
蟻地獄のように堀の土は軟らかく上に上がろうとする事を拒み続けて体力を消耗させる畝堀だった。

山中城は、芝生が茂った4月〜10月が家族でベストですが、余り覗き込むと堀に落ちちゃいますよ!

上から見れば そんなに深く無いようだが
腰のあたり程あるかなぁなんて言っていましたが

降りれば(落ちた)、180cm近い次男の
背丈ほどあり、畝堀の底からは一人では
とうてい上がれない

2007年10月7日の登城の際は芝生が青々と

2008年1月14日の登城では!

2008年5月11日の登城では、
色とりどりツツジが咲き乱れていた!

時期が少し早かったかな〜
芝生の色が………もう一度来るか!。

登城日 平成二十年(2008)五月十一日  編集日 平成二十年(2008)五月十三日
今回も、芝生の時期が少し早かったように思える。なかなか思ったようには行かないものだ!。
今回の山中城は、色々な色のツツジの花が咲き乱れていた

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