日本城巡り

合戦

諏訪原城


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静岡県榛原郡金谷町元宿

永禄十二年(1569)
築城者・武田信玄

台城 標高218m

本城は牧野『之』原北端に位置し、旧東海道と国道1号線に挟まれた地区にあり、大井川を背にして西向きに構えられた城である。すなわち金谷町牧野原字元宿、JR金谷駅西方約600mの裏山台地が城域にあたる。駅のある土地と比高すれば148mであるが、広い牧野原台地のほうから見ればあたかも平城のように感じられる。永禄12年(1569)11月7日、武田信玄、金谷台地に諏訪原など5砦を構える。築城奉行【馬場美濃守信房(信春・氏勝)】初代諏訪原城主となる。徳川軍の永井善右衛門安盛以下7〜80騎、安部大蔵定吉に添えられ諏訪原砦を攻める。安倍の金掘りを呼び寄せ、外郭から二の丸まで掘り通し、攻略する。天正元年(1573)高天神城奪取をめざす武田勝頼、馬場信房に命じ再び築城。守将今福丹波守顕倍・与力諸賀下総守昌清・小泉隼人忠季。天正3年6月、徳川家康、掛川城に入る。諸軍をもって武田方の海野・遠山氏らが守る諏訪原城を攻む。松平『桜井』与一郎忠正、亀甲曲輪(出丸)を落す。松平大給『おぎゆう』左近大夫真乗『さねのり』、菊川方面から攻め寄せたが城兵の突き出しにあって敗れ、ついで盛り返し城門際まで追撃する8月23日、徳川家康、本陣を日坂久延寺に移す。24日、約2ヶ月間におよぶ徳川軍の包囲攻撃の結果、城兵、夜中に諏訪原を捨て小山城に走る。同日、家康入城し徳川の有となる。松平周防守康親を城将とし、家康は城名を牧野原城と改める。城番松平甚太郎・西郷孫九郎。天正6年(1578)8月7日、松平主殿助家忠、修築する。9月6日、三河の諸将に城塁壁を修補させ、かつ板倉四郎右衛門勝重に兵糧を入れさす。天正7年(1579)3月6日、加番に松平主殿助家忠。3月11日、鉄砲衆20人入る。3月26日、戸田新六郎康長、松平家忠と加番を交代。天正9年(1581)2月、城代に松平主殿助家忠。7月26日、城代に松平丹波守康長。11月20日、城将松平周防守康親、城門を修理し、その用材を大井川から運ぶ。小笠原丹波安次・同安芸信元らを与力とする。また、家康は一族・譜代衆にそれぞれ加番一人を差し向けるよう命じる。松平康親、遠州樽木・川尻で七百貫文の地を加恩され旧領とも四千七百貫文を領す。天正10年(1582)松平康親、河東《富士川以東》を領し、三枚橋城に移り、諏訪原城は明き城となる。以後、掛川城に預けおかれ、天正17年頃、廃城と推定される。そして天正18年8月の徳川氏関東転封までの駿・遠両国境の守りとしての役目と目的は終了した。


私見・登城日2003・11・24  作成日2003・12・15  編集日2006・05・27

駿府城からの帰り道でナビに映り、急遽寄ってみた。国道1号線から3〜4km所に位置する城で、駐車場完備

のとんでもない広大な城です。駐車場の左側の民家にワンちゃんが居て、ず〜と吠えていました。

曲輪が15まで数えましたが、まだ奥が深く時間が足らず引き返した。もう一度チャレンジします

私見・登城日2004・03・20  作成日2004・04・22  編集日2006・05・27

昨年の11月24日に一度登城しているのが、時間が限られていたため、天主台まで来れなかった。

今回は、2日間の日程で来ているので納得のいくまで調べられる。が、途中工事中のため城の

崖下まで来ているが上がれない。しかし、菊川坂石畳を発見
慌ててカメラに収める。

城の位置はナビに映し出されているので心配は無いが、息子と相談の結果。工事中の道を

強行突破して城に行くという事に決まり、横すべりをしながら無事城に到着。これで城に行ける


駐車場の隣のワンちゃん、今回も元気に吠えて何よりでした。ワンちゃんの写真は無し

駐車場 8台位 無料   入城料 無料

て・よ

て・さ

駐車場からの登城口

本丸を背に天主台跡

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