日本城巡り

合戦

掛川城


静岡県掛川市掛川

復興天守
 1994

№077

搦手口から天守を見る

登城道から搦手を見る

標高65mの天王山頂に、文明五年(1473)ごろ、駿河守護今川義忠が遠江進出の足がかりとして、重臣朝比奈

泰?【やすひろ】に命じて築かせたのが、掛川城の起源である。その後、泰?の孫泰朝が、ここから南西五百㍍

ほどの竜頭山に近世掛川城を築き、永正十年(1513)に居を移した。掛川城は東に逆川を配する要害の地で

戦国時代には遠江の東の関門として、幾たびか戦乱の舞台になった。特に、永禄十年(1568)二月、

徳川家康と武田信玄との間で駿河・遠江分割領の密約がなされ、家康は同年三月に遠江へ出陣、一方信玄も

同年十二月、二万五千の兵を率いて駿河に攻め入った。このため駿府城にあった今川氏真は、掛川城に逃れ、

城主朝比奈泰朝に迎えられた。だが、翌1十二年一月家康は旧掛川城にあった天王山に布陣、

激しい攻防戦五ヶ月に和議が成立し、氏真は小田原に逃れた。この掛川城合戦で

勝利をおさめた家康は、石川家成・康通を城代にし、天正十八年(1590)家康が関東へ転封されると、

掛川城に豊臣系大名山内一豊が入城した。一豊は城の大改築にとりかかり、現在の掛川城の縄張りの

基本はこの一豊の時代にできあがった。城だけでなく、城下町全体を堀で囲むいわゆる惣構えは、

東海の名城と呼ばれるふさわしい堅固さであった。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後、

一豊が土佐に転封となり、のち松平・安藤・朝倉・青山・本多・北条・井伊・小笠原と城主の

交代が激しく、延享三年(1746)太田資俊が入封、以後7代つづいて維新を迎えた。掛川城御殿は

安政二年(1855)に太田資功が安政の大地震で倒壊した建物に代わって建てた、国の重要文化財。


文明五年(1473)
築城者・朝比奈泰?

私見・登城日2003・11・24  作成日2003・12・17  編集日2006・05・27

息子に埼玉に行く途中掛川城を見て行くように言われてやってきたが8時過ぎで、まだ、天守には上がれない

周辺散策・天守外観・城郭探索をしている時に掛川城館長が出勤。『朝、早いですねぇ、9時迄待ってくださいね』

と言われたが、ど~しょうか
。帰りに寄るから、ゴメン

私見・登城日2004・03・20  作成日2004・04・05  編集日2006・05・27

掛川城は、おすすめの天守だ。柱・天井の梁などを見てホレボレとした。平成6年の復興で木造建築の

見本のように思った。やはり城は木造でなければいけないと思うのは私だけではないだろう。

また、天守台の石垣も魅力がある。特に搦手からの天守を見上げて見ると、口は半開き、眉は八の字で

周りから見られたら見られたものじゃない。これでヨダレが出ていたら最悪のスタイルになる。

次に来れるのはいつになるか、今から楽しみにしている。
あっ!。現存御殿を見忘れて理由ができた

天守からの展望

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