日本城巡り

合戦

高天神城


静岡県小笠郡大東町土方

山城 標高132m

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応永二十三年(1416)
築城者・今川了俊

城碑の前で

本丸からの展望

城址は、小笠郡の中央に位置する大東町土方、小笠山山塊の東南に延びた尾根の末端、標高百三十二mの鶴翁山と呼ばれている山にあり周囲は急斜面や絶壁をなし、さながら天然の要害である。戦国期、『高天神を制する者は遠州を制す』といわれた要衝である。永禄十二年(1569)五月、今川氏真が掛川城を徳川家康に明け渡し、徳(戸)倉城に退き遠江における今川氏の勢力が衰えると共に、高天神城は武田・徳川両氏が攻防戦の血を流し続けた。高天神城は今川氏が守護大名から戦国大名に成長し遠江進出を開始し始めて以後と考えられる。換言すれば、今川氏親が北条早雲らに命じて遠江に侵攻を開始、斯波氏の勢力と戦った明応・文亀(1492〜1504)前後と推測するものである。今川氏没落後、永禄十二年、徳川家康に属する小笠原与八郎長忠【氏助】が本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清ら約二千の兵をもって守っていた。元亀二年(1571)三月武田信玄は二万余名の軍勢を率いて遠江に侵攻し、高天神城を内藤昌豊に攻めさせたが守りが固く撤退した。信玄没後その子勝頼は天正二年(1574)五月、二万余の軍を率いて遠江に攻め入り十二日に高天神城を包囲した。勝頼は力攻めを行う一方、一族の重鎮穴山信君【梅雪】を通じて城将長忠に開城するよう勧告した。長忠は講和に応じるよう装いながら、向坂牛之助を使者とし、浜坂城の家康のもとへ二度にわたり援軍を請うている。だが、後詰めを約束した徳川・織田連合軍の姿はいっこうに現われない。六月に入り、武田軍が東峰の大手口の塀際まで攻め寄せるような激戦ののち西の丸は落ち井戸曲輪は占領されて城は分断、大軍の攻囲を一ヶ月わたって支えていた長忠だが、六月十七日、ついに降伏する。高天神攻略を急ぐ勝頼は、長忠に駿河国富士下方地方で一万貫を給し、長忠の部下にも旧知行高と同額を与えたという《これを東退という》また、一部の者は浜松へ退去することも許された《これを西退という》翌三年五月、勝頼は徳川・織田連合軍と長篠で戦って大敗する。同六年三月家康は高天神城攻略の拠点として大須賀康高に命じて横須賀城を築城し、その後、高天神城の城将は駿河先方衆の岡部丹波守真幸、軍監横田尹松となり、小競り合いが繰り返された。翌九年三月二十二日家康麾下の榊原康政・本多忠勝・鳥居元忠らがはげしく攻めたて、城兵を撃破した。城将岡部丹波守真幸・軍監横田尹松らは大久保忠世らが守る《林の谷》に斬り込み、岡部は討死し、横田は脱出した。こうして家康は遠江における武田方最大の拠点を攻略、城は廃城となった。


私見・登城日2004・03・20  作成日2004・04・04  編集日2006・05・27

最初、搦手口に着いたが地図を見ると大手口まで20分程度で行けそうなので、慌てて大手口に

車を移動さす。大手口駐車場に5〜6台の車が停まっていたが20台は停めれそう。

いつもの大手口からの登城開始。坂道と階段で、駐車場から20分も歩くと本丸に着く。

だが、教育委員会が調査のため青ビニールシートをかけて、何も見えない!。

城碑の前で写真を撮り、本丸の土塁・三の丸・着到櫓跡・井戸曲輪だけが確認できた。

駐車場 大手口駐車場 無料 20台程  入城料 無料

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