合戦
花沢城
静岡県焼津市高崎城山
087
山城 標高150m
天文六年(1537)
築城者・関口氏録
戦国時代、駿府への交通路の一つであった静岡市西域の丸子や同市南部海岸の用宗に連絡する
府中道や小坂越え道の関門としての役割を持つ城であった。天文五年(1536)花倉合戦以後、領国経営
を目ざす国主今川義元は、遠江国と接する西駿河の押さえとするため南部海岸の地に花沢城、
北部字津ノ谷道の前衛に徳之一色城の二城を構え、その軍事力に一層の拍車を掛けたのである。
花沢城は『駿河史料』によれば明応・文亀の頃、構築されたとしているが、その年次に関係する裏付けはない。
そして初代城主を一族の口越後守氏録とするが、関口氏が駿河に在府していたのはやや年代が下る
天文年間で、《言継喞記》にその名が見え、周囲の状況から考えて天文六年頃の築城が妥当と思われる。
関口氏録が天文年間、花沢城に在番したことに関しては天文二十年頃、関口氏の本領三州長沢城には
匂坂『さぎさか』六郎右衛門が在城していたことが一つの微証であるが、永禄十三年(元亀元年・1570)正月、
武田勢が大原肥前守資良の守備する花沢城を包囲《大日本史料》していることからその頃すでに城主は
代わっていたと考えられる。なお、大原氏を主将とする今川勢は十四日間にわたる激戦の末武田氏に開城
している。花沢城は標高百五十mの頂部に幅二十m、長さ七十mの本丸を置き、北方へ続く尾根、西の高草山
へ続く尾根、また南の二の丸から西南に走る尾根等に曲輪を配置している。特に二の丸は、東面に全域を南北
に走る帯曲輪を付け、西側は本丸と区分する空堀を設け、堀の外壁の土塁上面を利用して 本丸と連絡する。
花沢城跡の碑
城碑側面に由来が書いてあった
私見・登城日2004・03・20 作成日2004・04・04 編集日2006・05・27
駿府城から諏訪原城に向かう途中に偶然見つけた城跡。遺構がなかなか見つからず、
お茶畑を30分ほど右に左にと探し回ったが曲輪らしきところは見つけたが、空堀が
見つけられず、後ろ髪を引かれる思いで次の目的地諏訪原城にハンドルをきる。