日本城巡り
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偃月城

大阪市天王寺区餌差町

慶長十九年(1614) 真田幸村


≪真田丸出城≫

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三日月形の城で、真田丸出城とも呼ばれた。慶長十九年(1614)真田幸村が大坂城惣構南面の小丘陵

に築き、大坂冬に陣では三千余人が防戦した所。東郭は水掘で、西郭は塀を建てた二郭から成る。

円珠庵の北方の高台がその跡と推定される。上町台地の北端に選地する大坂城は、淀川『現大川』

と大和川『現寝屋川』に西を東横堀に、東を大和川・平野川に守られていた。南方には惣構えの空堀が

構えられていたが、広大な地続きであり、いわば唯一の弱点であった。徳川軍が大兵力を投入して、

その南方より攻めてくるのは明らかであった。さて、高野山より大坂城に入った真田幸村は出陣策を

提案するが、大坂方は籠城策をとった。このため大坂城の弱点を克服すべく、平野口の外側に出丸を

構策した。真田丸である


私見・登城日2003・04・22   作成日2003・05・16   編集日2006・02・06

三光神社の宮司さんに聞く

真田幸村は、夏の陣では死んでいないのちに、和歌山に逃げ延び、信濃に帰った記録が残る

また、三光神社の本堂階下の真田幸村公の像横に、
大坂城とつながっている地下道が今に残る

と言う事で、地下道を見せて頂き、また文章も拝見した。2時間ほどしてから宮司さんは、
今日は

お喋りになってしまいましたなぁと言い、次に来られたときに、この続きを話しますから、待ってますよ

と言い残し、本堂に入って行かれました。夕方6時過ぎ鳥居の写真を撮る時はフラッシュが発光していた。


真田幸村公

三光神社

大坂城につながる地下道の入口

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