日本城巡り

野田城

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愛知県新城市豊島字本城

永正二年(1505)
  菅沼定則


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山家三方衆の一人、田峰管沼定忠の三男織部正定則が

永正二年(1505)富永荘の地頭であった富永直郷の後継者と

して入り、野田管沼氏の祖となった。野田管沼氏は定則以来、

今川氏に属していたが、永禄三年(1560)五月今川義元が

桶狭間の合戦で討死すると、今川氏に背いて松平元康【家康】

の幕下となった。

この城が歴史上知られるのは、城主管沼定盈『さだみつ』に時で

天正元年(1573)正月、武田信玄は東三河攻略うぃ開始し、野田

城もその攻撃目標となり、《三河物語》には{井の谷へ入て、

なかし野『長篠』へ出給ふ}甲斐武田氏の大軍団とわいえ、攻める

行きがけの駄賃にこんな小城は踏み散らせとは、いささか恐れ入るが

この戦いで信玄は城兵の村松芳休の笛の音に聞き惚れ、本陣から

抜け出て城に近づき、これを見た城兵の鳥居三左衛門が火縄銃で

撃って,信玄に深手を負わせ、これが元で信玄が死去したという伝説は

あまりにも有名である。また、このこの合戦では、二十日余りの攻撃に絶えている野田城に、西南の谷から城内の

井戸水を抜くため、甲斐の金掘り人夫を動員して掘り進め、ついに井戸水を抜いてしまったという。しかし、戦国の

世の武士の情けか、信玄は城兵一人に一日お椀三杯の水を、抜いた井戸の釣瓶に託して送ったという美談も

今に伝わっている。本宮山麓の台地に本郭・二の曲輪・三の曲輪や井戸を今に残す野田城址である。


私見・登城日2004・03・21  作成日2004.・04・03  編集日2006・05・01

国道151号線に野田城址の看板を発見。脇道入ると、三の丸・二の丸確認。二の丸より登城開始

ウッソウとしていて、廃城独特の雰囲気がする。二の丸より本丸に進む。二の丸と本丸の境に空堀を確認。

本丸に城碑が建っていた。城内で樹木の伐採をしていた方が、
『井戸があるよ』と教えてくれ、見に行く。

井戸は水が枯れ形は変形、気にも留めず帰ったが、この井戸が20日余りの武田信玄3万大軍団の攻撃

に、300余りの寡勢で護った城兵の命の水瓶だった事が資料を見て知った。

野田城碑

城兵の命の水瓶となった井戸

さ・て

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