長篠城
愛知県南設楽郡鳳来町
≪末広城≫
≪扇城≫
095
永正五年(1508)
菅沼元成
本丸跡
長篠城碑
長篠城の築城は、永正五年(1508)駿河守護、今川氏親の
武将、管沼元成による。
永禄三年(1560)今川義元の死後、長篠城主管沼正貞は
甲斐の武田氏に属した。
天正元年(1573)徳川家康は長篠を攻め落すと、松平家忠
・奥平景忠を城主として置き、武田氏に備えた。
天正三年、奥平信昌が長篠城主のとき、武田勝頼は
一万五千の兵を率い、長篠城を包囲した。
信晶が鳥居強右衛門を急便とし徳川家康に援助を求めた
時のエピソードが残っている。家康は同盟の織田信長に
援助を頼み、徳川・織田の連合軍は長篠野西、
設楽原で対決した。日本の戦史上有名な長篠合戦である。
私見・登城日2004・03・21 作成日2004・04・05 編集日2006・04・30
長篠城に来て、本丸から周りを見渡し砦の位置を確認し、包囲された事を想像すると
信晶の気持ちが解る様な気もする。のち、資料館に入り、遺構の品々を見ていると、お腹が空いてきた。
長篠城大手口の前にある食堂で、信玄そばを食べてながら、野田城攻略作戦会議をして野田城を目指す。
て・さ