敦賀城
福井県敦賀市結城町
天正十一年(1582)
蜂屋出羽守頼隆
139
天正3年、越前を平定した織田信長は、武藤宗右衛門を敦賀郡代に
任じた。その後、同10年、本能寺の変後、武藤氏に代わって
蜂屋出羽守頼隆が敦賀5万石の領主となった。頼隆は、
武藤氏の花城山城を捨て、この笙川に築城を始めた。頼隆は同17年
九州遠征中に病没し、代わって大谷吉継が5万7千石の敦賀城主と
なった。吉継在城中の12年間に、敦賀城は拡張整備されたといわれる。
この大谷氏も、関が原の役で西軍についたため 滅び、徳川家康は
大谷氏の領地を没収し、田中清六を代官として置いた。この敦賀城も
結城秀康の越前入部と共にその支配下に置かれた。
慶長年間(1596〜1615)に城の一部を焼失し東堀を埋める等、
規模が縮小され、元和の一国一城令によって、三層の天守を構えて
いたと言われる敦賀城も破却されてしまった。寛永元年(1624)
敦賀は、小浜藩主京極氏の支配するところとなった。その京極氏は
松江城主として移封され、代わって封され、代わって川越城主酒井忠勝が
川越城主酒井忠勝が小浜城主となった。この小浜藩においては、敦賀に
陣屋を置き支配した。陣屋の建物の一部は、市内来迎寺に移築された。
私見・登城日2005・03・21 夕方 作成日2005・05・01 雨 編集日2006・05・23
敦賀で海の幸を味わうため、北陸自動車道を降りる。駅前の観光案内に行き、近くで美味しく食事が
できる店を教えてくださいと尋ねると、まるさん屋さんを紹介された。
魚屋さんの二階で刺身が美味しいとのことで、早速車に戻り、3分ぐらい、駅前大通の駅から200mほ
どのところにあった。一階の魚屋さんでは、越前かにを店いっぱいにならべていた。が、二階に上がる。
店に入り、食べ物が出てくるまで敦賀城の位置を見ていると、金ヶ崎城も行けなくは無い範囲にある
事がわかり、あわただしい食事となった。敦賀城跡は、永賞寺と北小学校になっていて、寺内に大谷
吉継の供養塔が祭られていた。写真を撮り、あわてて、金ヶ崎城にぶっとばす!!
駐車場 20台無料 入城料 無料
永賞寺
大谷吉継の供養塔