日本城巡り

一乗谷城

福井市城戸ノ内町

永享年間 朝倉教景

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朝倉義景館跡

天正元年(1573)織田信長によって滅ぼされた戦国の      

雄朝倉義景の城下町一乗谷は、そのまま土に埋もれ、  

400年余たった昭和42年から再びその姿を現し始めた。    

平成7年4月には城下町町並みが復元され、当時の       

様子を知るかとができるようになった。一乗谷城は       

一乗谷川の東にそびえる一乗城山《海抜474m》に       

築かれた山城で、南北に走る尾根伝いに三の丸・        

二の丸・一の丸・千畳敷を中心とする本丸からなる       

連郭式山城である。足羽川《あすわ》に注ぐ一乗谷川      

沿いの小さな谷間の地域に造られた城下町は、         

初代朝倉孝景から五代義景までの約100年にわたり、     

越前の文化や経済の中心地であった。

一乗城山の西裾に三方を堀と土塁で囲まれた          

約100m四方の大きな屋敷が義景館跡である。土塁は     

館内から高さ1.5m程度で外の堀は幅8m・深さ3.5mの     

素堀りで、山裾に空堀となって続く。応仁の乱で都が戦火にかかると、公家や僧侶・文化人たちは都を捨て、

朝倉氏の肥後を求めて一乗谷を訪れた。都人のもたらす文化の香りを吸収し、当代一の華やかな文化都市

が栄えた。一乗谷安養寺には、騒乱から逃れた足利義昭も逗留している。のち義景は、義昭を将軍に奉じた

織田信長に攻められて越前大野で自害する。


    私見・登城日2005・03・20  晴れ  作成日2005・04・16  編集日2006・05・22


亥山城から約1時間で一乗谷城に来た。下城戸の前に立つと、一乗谷は南の山並みへとゆるやかに

のびていく。整然と並ぶ屋敷跡があらわれて、驚かされる。現代の大規模な住宅分譲地のようだ。

県道の近くに町家、奥には町家と武家屋敷、少し高みに寺院跡、それぞれに井戸が復元されているので

生活感が沸き立ってくる。

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